桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 未だに目を覚まさないチェシャ猫のベッドに、顔を埋める。座り込んだ床は、カーペットが引いてあって痛くない。でも、胸が痛い。
「チェシャ猫は、本当に覚えてないの?」
 幼い頃、私達が昔出会ったこと。一緒に遊んだこと。
 私も全て思い出したわけじゃない。断片的で、霞んだ記憶。記憶は思い出されることを待ち望んでいる。けれど蓋をされているのか、一向に思い出せない。
『思い出したとしても、忘れておしまい』
 意味深なチェシャ猫の言葉は酷く胸を貫いて。寂しくて悲しかった。
「私は、忘れたくなんてないよ」
 忘れたくなんてなかった。
『チェシャ猫のことがね』
 熱い、辛い、だけど甘い想い。甘く、けれどどこか悲しい大切な思い出。大切な事なのに、この先の言葉を私は思い出すことが出来ない。
 チェシャ猫が思い出してくれたなら。その言葉の先も、靄のかかった記憶もきっと鮮明になるかもしれないのに。上半身を預けているベッドがふわふわで、心地好い睡魔が襲う。疲れているのか、睡魔に抵抗することが出来ない。
 ダメだ、眠くなってきちゃった。
 目を伏せて、襲いくる睡魔に身を任す。
「チェシャ猫がいなかったら、私はここまで無事に来ることは出来なかったよ」
 深い、深い眠りへと堕ちていく。今度はどんな夢を見るのだろう。
 楽しい、夢が良いな。せめて夢の中だけは、悲しくも切なくもない、幸せな夢を。もしかしたら夢魔に会えるかも。小さな期待を抱いて、私はそのまま眠りについた。


「アリス……」
 すぅすぅと寝息を立てて眠りについたアリスを、身体を起こして見守る。毒のせいか、解毒剤を飲んだ今も身体は気だるさを残している。身体は汗ばんでいるし、気分も最悪。気持ち良さそうに眠るアリスを見ると、気分も幾分か晴れていくけれど、アリスの呟きにどうしても眉を寄せてしまう。
『チェシャ猫は、本当に覚えてないの?』
「アリス」
 起こさないように。聞こえないように。小さく呟く。
「本当は、覚えているよ」
 忘れた日なんてなかった。忘れられるはずがない。僕は、君と君との記憶に支えられて生きてきたのだから。
 アリスと離れてから、再び会うまで世界を歩いて、住みかを転々として。虐げられながらずっと生きてきた。辛くなかったわけじゃない。ただ、君を想えば生きていくことが出来たから。だから、忘れるはずがないんだ。忘れられるはずないのに。
「言えるわけないよ」
 覚えている、と言ったなら。アリスは思い出してしまうかもしれない。僕の言った言葉を。そうしたら優しい君は、きっと悲しむ。泣いて、しまうかもしれない。
 僕はこの先、結局君を泣かせてしまうことになるけれど。せめて一緒にいる間は、知られたくない。悲しませたくない。
「だから忘れてお終い」
 僕がいなくなる、その日まで。
「笑っていて、アリス」
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