桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 ソファーから降りて、恐る恐る声のする檻へと近づく。歩くたびに靴の音が響いて、恐怖が増した。相手は人であることは間違いないのに、そこにいるのが異形の姿をしている想像をしてしまう。
 そして何より、声は私の心に不安を連れてきている。前にも一度、同じことをそっくりそのまま問われた気がした。
 私は知っている。けれど、思い出すのが怖い。思い出してはならない。
 違う、私は、思い出さなければならない。例えば今の幸せを手放してでも。
「あんた、誰? ねぇ、答えてよ」
 最後の言葉は希望を失ったかのように掠れて闇に溶けた。
 檻の前に立つ。願ったとおり、異形の姿ではなかった。暗がりに目を凝らすと、声の主は檻の中央で膝を抱えていた。
 藍色の髪をした、私より小さな少年。埃で汚れてしまった服の隙間から、傷が見える。血はもう固まっているけれど、何度もぶたれたのかアザが幾つも残っていた。
 言葉を失い、名乗ることを忘れる。足が震えて、立ちすくんでしまう。
「叔父さんに命令されて僕をぶちにきたわけ?」
「ち、違うよ! 私は、白ウサギと黒ウサギを追っていたらここに来ただけで」
「は? 何言っているの? 夢でも見たわけ? あんた何なの? ほんとに何しに来たの?」
「夢じゃなくて、ほんとうにいたの。私は」
 そこまで言葉に出して、自分の名前を忘れてしまったことに気付く。どうして私の名前を思い出せないのだろう。
 育ってきた家の事を考える。ハリーお兄様やロリーナお姉様、家族の名前は思い出せるのに、ファミリーネームが何だったのか思い出せない。
 リン、と鈴の音が鳴った。振り向くと、銀色の猫がソファーの上で座っていた。その姿に、息をするのを忘れる。
 私はやっぱり大切なことを忘れている。とてもとても大切なこと。大切な人を。
「思い出して、主。主は私に言った。忘れちゃいけないの。悲しい記憶でも、覚えてなきゃト。呪いを解きたいト。主は、願って、手を伸ばし続けた。主、夢にして忘れてシマワナイデ」
『忘れてお終い』
 赤い記憶が頭に浮かんで涙が溢れた。胸が熱い、苦しい、鼻がつまる。言葉にならない声が喉に引っかかる。
 どうして、忘れてしまっていたの。
 私には大切な使命があった。ウサギを追いかけ、時計を止める。世界の崩壊を防ぐ、大切な使命。怖くて、誰かを犠牲にすることが納得出来なくて、絶望に希望を隠され自分の願いに気付かず、立ちすくんで。
 そんな私の手を引いてくれた人がいた。魔物から私を守り、私の願いを共に叶えようとしてくれた。私に勇気をくれた。泣いている時は涙を拭ってくれた。
「ちょっと、何泣いているのさ」
 牢の中から動揺が伝わってくる。けれど涙が止まらなかった。ついには嗚咽が漏れて、牢獄に響いていく。
 止めることが出来なかった。
 白ウサギと黒ウサギの呪いを解いて、次はすべての呪いを解く。解いたらチェシャ猫がいなくなるなんて思っていなかった。消えてしまうかもしれないと、思っていても。隣にいてくれると、手を繋いでいてくれるんだって信じていた。
 どうして、何も言ってくれなかったの。どうして、お別れの言葉さえも、言ってくれなかったの。
 心の奥に沈めていた想いが、記憶と一緒に甦ってくる。女王様達の前では言えなかった、悲しみ。後悔。
 私はソファーに近付き、ダイナを抱いた。ダイナは抵抗することなく、私にされるがまま身を委ねている。鈴の音が鳴って、まるで私を慰めてくれているようだった。
「ありがとう、ダイナ。思い出したよ」
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