桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 聖女のように優しい微笑みを携えたロリーナお姉様を見て泣きたくなった。不思議の国とロリーナお姉様達がいるこの家。どっちが私の帰る場所なのだろう。
 私は、不思議の国へ帰らなければならない。私の帰りを待つ女王様やリズを安心させてあげたい。鏡に閉じ込められていた夢魔と、手を繋いで外を駆け回ってみたい。スペードのエースと、ちゃんと話してみたい。
 でも、その気持ちとは反対に、不思議の国の記憶がどんどん薄れていく。
 上塗りされていく記憶。私はこのまま不思議の国を忘れてしまうのかな。
「あらあらあら、そこの貴女、ピンクちゃん?」
 からっとした明るい声が聞こえてキリマ家の門を見ると、五十代後半と見られるおば様がこちらに手を振っている。背筋がしゃんとしていて、皺一つないコートを羽織り、その身振りと外見からは気品が漂っている。
 一つ不可解な点をあげるとすれば、帽子についているヴェールが、まるで悲しみを隠すように顔を隠してしまっている。微笑む口元だけが見えていた。
 こちらの世界な記憶を辿っても私の知り合いではない、気がするのだけど、ロリーナお姉様と視線を合わせると、ロリーナお姉様も知らないようだ。
「あの、どちら様でしょうか」
 私がおずおずと尋ねると、夫人はあらっ、と手を口元に当てて驚いて見せた。少しずつ近付くと、軽く会釈をされる。
「あらあらあら、ごめんなさいね。ご挨拶させて頂くわね。ワタクシはキリマ家の前代当主の母、マルガレーテと申します。息子夫婦を亡くし、後をついだ次男坊と長らく連絡がとれなくなり、様子を見にきたの。そうしたら館から警官や救急車が出てきたものですから、驚いてしまって」
「あの、それでしたら警察の方から聞いた方が良いかもしれません。キリマ家当主は警察に連行されました。ユウリキリマを監禁していたのです」
 ロリーナお姉様がそう答えると、マルガレーテさんは驚きに肩を強ばらせた。
「まぁ、なんてこと。では、家で警察からの連絡を待つことにするわ」
「はい、では私達はこれで」
「あら、お待ちになって。ワタクシ、ピンクちゃんとお話がしたいのだけれど」
 ロリーナお姉様が私の肩を抱いたまま、家への方向へ歩きだそうとすると、マルガレーテさんに引き留められる。マルガレーテさんは私を見つめると、肩を落とした。
「今は綺麗になさるのが先ね。こちら、ワタクシの住所です。よろしければ遊びに来てくださらない?」
 ね、と念をおすように、手提げ鞄から取り出したカードを私に握らせる。手袋で隠された手が優しく触れた。
「あの、失礼ですがお会いしたことはあったでしょうか? その、最近の記憶が混濁していて、貴女を存じ上げないんです。ごめんなさい」
 こちらの世界に来てから思い出す『あるはずのない記憶』。この記憶が何なのか分からない。思い出そうとしても、目の前のご婦人を思い出すことが出来ない。
「ごめんなさいね。つい。あの子からお話を聞いているうちに、この呼び方が染み付いちゃったわ。貴女とお会いしたことはないのよ、お気になさらないでね」
「あの子?」
「あら、今の貴女は覚えているかしら。覚えていないなら年寄りが冗談を言っていると笑って頂戴ね。うちにね、猫が帰ってきたのよ」
 猫、という言葉を聞いて、心臓がドキリと跳ねた。驚きと期待と、焦り。白ウサギを無我夢中で追いかけたあの時のように、我を忘れてしまいそうになる。
 何処にいるの、早く会いたい。貴方に。
「チェシャ猫」
「あらあらあら、覚えていてくれたのね。そう、ならワタクシはこう名乗らなければならなかったのね」
 マルガレーテさんは手を胸に当てると、首を横に傾げた。ヴェールは角度を変えてもご婦人の顔を守っている。
「ワタクシは公爵夫人。魔女に不思議の国を追放された、醜い醜い公爵夫人よ」

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