桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 声にした途端、空気が震えた。呟きは空虚に消えず、どこか、誰かの耳に届いて吸収されたような気がした。影に誰かがいるような。けれど部屋を見渡しても、人影もウサギの姿もない。勿論、チェシャ猫の姿も。
 掴むことができたチェシャ猫の手がかり。すぐにでも公爵夫人の家へと向かいたかったけれど、もうすぐ両親が帰ってくるので、その準備をしなければならないと家族から外出を禁止されてしまった。ここでの生活の記憶がない私は、記憶喪失の恐れがあると言われ、一週間も部屋に軟禁状態。
「いつチェシャ猫に会えるのかな」
 もしかしたら、チェシャ猫は私のことを忘れてしまっているかもしれない。
 ここでの記憶と、不思議の国での記憶。時が経つ度に、不思議の国の記憶は不鮮明になりつつある。ここ一週間、毎日見る夢だけが鮮明に記憶に刻まれていく。
 女王様そっくりの女性が、魔女と罵られ焼かれる夢。
 手元にある本の表紙を撫でる。この『魔女の火炙り』は、百年ほど前にあった魔女と疑われた人々が火炙りや拷問を受けたことを証明している文献。
 今日も見た夢が、この現実、この世界にあったことなのだと淡々と語られていた。驚いたことに私の住むこの街は魔女狩りがあったらしく、魔法が存在すると分かった現代でもそうした歴史背景から、魔法による奇跡が起こらないのだという。
 まだ産業革命がされておらず、食物も不足し、市民の服装も心も豊かとは言えない貧しい時代。
 そんな時代に女王様がいたなんて思えないけれど、光に照らされるとキラキラと輝く金髪のウェーブに、女性なら誰でも羨むすらりとした手足、縛られても尚失せない威厳が、女王であると主張する。
 もし、この夢が真実だとしたなら、女王様は、ううん、『魔女』は。
「お姉様、ハリーお兄様がマフィンを焼いてくださいましたわ」
「イーディス」
「言っておきますけれど、ノックはしましたわよ」
「ごめんね、考えごとをしていて気付かなかったの」
「またお勉強ですの? お姉様がこうも毎日、積極的にお勉強なさるなんて珍しい。今日は何を読んでらっしゃるの? 昨日は深層心理学、でしたっけ?」
「今日は歴史かな。ちょっと気になって」
「記憶喪失になったら、気になるのは自分の過去ではないですの? 深層心理に歴史、それに昨日までに錬金術、世界史に科学。これらの学問には何の意味が?」
 イーディスが不安そうに私の顔を覗きこむ。私の心を窺いしろうとする瞳に、ドキリとした。むしろもう、見透かされているのかもしれないけれど。
 自分のこと、私を囲む家族のこと。知ってしまえば、不思議の国に帰れなくなる気がして。チェシャ猫のことも、皆のことも、忘れてしまう気がして、怖くて聞くことが出来ない。
 先日、イーディスが持ってきてくれた家族のアルバムもまだ開けずにいる。
 私はまだ、ここでの自分の名前も知らない。示し合わせたように、ここで目を覚ましてから家族の誰もが私の名前を呼ぼうとはしない。まるで、私が誰だかわからない不安を抱えているかのように。
「お姉様に意地悪をしたいのではないんですの。さぁ、紅茶が冷めてしまいますわ。行きましょう」
「うん」
 イーディスに手をひかれ、部屋を出る。その小さな手は、私を離すものかと言うように強い。
「マルガレーテ夫人に、明日、伺うと連絡をしておいた」
 席につき、紅茶とマフィンが揃うと、すぐにハリーお兄様から告げられる。マフィンの優しい甘さが鼻腔を擽って夢中だったのに、一気に現実に引き戻された。
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