桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 私は、チェシャ猫のことを省みないで、呪いを解く事を決めてしまったのだ。チェシャ猫は元々ウサギの時計を止める為にここまで一緒にきた。ううん、違う。正しくは案内してもらった、だ。呪いを解く為にではなく、ウサギの時計を止める為に。
 なら呪いを解くと決めた今、チェシャ猫は?
「チェシャ猫」
「行くのかい? アリス?」
 私が次の言葉を紡ぐよりも先に、チェシャ猫は言葉を発した。
 風が吹き抜ける。それはチェシャ猫に初めて会った時に感じた、あの暖かな風と同じ風。まるで風に日だまりの優しさが含まれているかのようだった。だけど今は、悲しく、まるで別れを感じさせるような風。
「うん」
 ねぇ、チェシャ猫はどうするの?
 聞きたい。でも、聞けない。お別れの言葉が出てくるのが怖くて。
「アリス、僕はアリスの案内人」
 チェシャ猫が、呟くように言う。
「チェシャ猫の役目は、アリスを案内する事。僕も行くよ。アリス」
「でも、チェシャ猫」
 想いとは裏腹に、出てくる言葉。
 まだ離れたくない。だけど、チェシャ猫に迷惑はかけたくない。だってこれは、私が決めた事。いつしかチェシャ猫は、私が私だから守っているのだと言ってくれた。でも、チェシャ猫はわざわざ危険を犯してまで、私を守る必要はないんだ。
「私、勝手に決めちゃった。女王様が言っていた、案内はきっとウサギの所まで。ならチェシャ猫の役割はもう、終わりだよ。危険な目に遭わなくていいんだよ」
「アリスは僕が首をはねられてもいいのかい? 約束しただろう? 女王に、君の友達に、そしてアリスに。君を守るって」
 チェシャ猫はいつものように微笑んでそう言った。
「それにアリスを守るのは僕の役割だよ。これだけは眠りネズミにも、帽子屋にも譲れない」
 チェシャ猫はキッパリと言うと、近付いてきて私の前で立ち止まった。
「本当にいいの?」
「うん。約束したからね。僕は最後まで君を守るよ」
「また危険があるかもしれないんだよ?」
「それは僕の台詞だよ。危険だからアリスにはこんな決断はしてほしくなかったんだ」
 チェシャ猫はあの時、心配してくれていたんだ。そして、今も。
「でも、危険を覚悟で呪いを解きたいんだろう?」
「うん」
 呪いを解く為には危険が付きまとう。それは直感が告げていた。それでも、呪いを解きたい。暗黒の魔女に負けたくない。だから今、覚悟を決める。呪いを解く覚悟を。
 私はずっと、アリスの使命を心の中で拒み続け、自分からは行動に移さないままでいた。刻限の時を考えないようにしてきたように、受容しながら、本当に肝心な事や自分の気持ちを考えもせず、ただひたすら不安がるだけ。それでも此処までくることが出来たのは、チェシャ猫が私の手を引いてくれたから。自ら進めない私の手を引いて、何度も何度も守ってくれた。だけど、今度は手を引かれるんじゃない。一緒に、歩く。歩いていきたい。
「チェシャ猫。呪いを解く為に、一緒に来てくれる?」
 覚悟は出来た。もう迷わない。 
「勿論だよ。アリス」
 いつまでもチェシャ猫の背中を見ているだけじゃダメ。何もかも任せるのはもう止める。自分で決めて、自分から歩いてくの。
「ありがとう。チェシャ猫」 
「そうと決まったら早速白ウサギを追おうか。きっと白ウサギは待っているよ」
「うん!」
 白ウサギの落ちた所に向かい、川を覗き込む。水面からの距離はそう遠くないみたいだ。
「チェシャ猫、行こっか」
 チェシャ猫がいつもしてくれたように、手を差し出す。
 チェシャ猫は一瞬驚いたような顔をしたけれど、微笑んで私の手をとった。
「用意はいいかい? アリス」 
「うん、ばっちりだよ!」
 雲行きはいまだに怪しく薄暗い。だけど世界はどこか、明るく見えた。水面もキラキラと光っている。
 まるで物語のほんとうの始まりを、歓迎しているかのように。
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