桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 街中の人々の手が私達に向かって伸びてくる。絡め取るように伸びた手は、いらないものを捻って捨ててしまいそうで、背筋が冷えた。
「何する気なの! 止めて! 皆目を覚まして!」
「消えてしまえ」
「不幸の元凶」
「私達はお前のせいで」
ブツブツと呟かれる悲しい言葉が嫌でも耳に入ってきて、胸に刺さる。
迷いの森でチェシャ猫は言っていた。
『僕は世界の崩壊を知らせる者だよ。だからそんな僕がいたら人々は嫌悪する。世界の崩壊が来たんじゃないか、ってね。だからチェシャ猫の僕が存在して嫌われるのは当然の事なんだ』
 こうやって、チェシャ猫は人々の思いを知っていったの?
 チェシャ猫は、何も悪い事なんてしてないのに。
『もう、慣れたから』
 あの言葉が今になって棘となってつき刺さる。
 慣れたなんて、嘘だよ。
 勝手な思い込みかもしれない。けれど、懸命に街の人々の手を振り払うチェシャ猫の表情には、悲しさが入り交じっている気がした。
「必要ないモノ。誰も必要としていないモノ。排除。排除しろ」
「違うよ、そんな事ない!」
 悲しくて悲しくて、溢れそうになる涙を堪えながら必死に叫ぶ。
 間違っている。チェシャ猫への誤解も、何もかも。世界を恐怖に陥れたのは魔女。ここにいる誰も悪くなんかない。彼らが責めるべき誰かがいるとしたなら、きっとその的は私だ。
 私は私の想いの為に、世界と人々を危険に晒す。
「チェシャ猫は誰も必要としてないモノなんじゃない! 私が、誰よりもチェシャ猫を必要としているよ! チェシャ猫がいなければ、私は使命に向き合うことが出来なかった。此処にくることが出来なかった。私はチェシャ猫が必要なの。いてほしいの!」
 絞り出すように叫ぶと、体が包みこまれる。
「ありがとう」
 その一言で、チェシャ猫に抱き止められたのだと知った。
 いつの間にか傘もささずにいた事。いつの間にか雨が止んでいた事。空中に飛んだ淡く光った水滴が、自分の涙だと気付き理解したのさえ一瞬のようで。時間が止まったかのようだった。
「わあぁぁぁぁ」
 抱きとめられたまま、チェシャ猫が高く飛び上がり、人々が小さく見えていく。屋根に足がつくと同時に、悲鳴があがった。一人や二人のものではなく、私達を囲っていた大勢の悲鳴だ。
「ふー。危機一髪ってやつだな! へへっ。感謝しろよ、お二人さん」
 声がした方に視線を巡らすと、一つ向こうの屋根の上にオレンジ色の髪が見えた。
「仕立て屋!」
「おー」
 背丈程もあるまち針を持ったその姿は、間違いなく仕立て屋だ。別れてからほんの少ししか時間が経っていないはずなのに、何年も会っていない気がして、再会を喜ぶ気持ちが先に立つ。
「感謝するどころか怒るよ。僕がアリスを連れて避けなければ、僕らも針の餌食だったよ」
「針?」
「へへっ。わりーわりー。でも、避けたじゃねーか」
「全く、刺さっていたらどうするつもりだったんだい?」
「そんときゃそんときだ」
「引っ掻くよ」
「チェシャ猫、落ち着いて!」
 再び爪を出したチェシャ猫をなだめ、落ちないように気を付けながら屋根の下を見る。倒れている街の人達は、ピクリとも動かない。散らばったマグカップや婦人の帽子が主の手や身体から離れ散らばっていた。まるで嵐でも来たかのような惨状に、まさか、と悪い想像をしてしまう。
「生きているよね?」
「ん? 生きているぜ。へへっ。ちっと眠らせただけ」
「針で眠らせるなんて、どうやってやったの?」
「方法は企業秘密。オイラは仕立て屋。針の扱いはプロだぜ? 狙った所に刺すくらい朝飯前だ」
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