新米侍女は魔塔主殿下のお気に入り ~なぜか初恋の天使様と勘違いされて寵愛されています~
何日かが過ぎて、気温が少し暖かく変わり、春の予感に人々の表情が明るくなってきた。光返しの夜会の夜までは、あと少し。
夜会用のドレスは、すでに仕立て屋に注文を済ませている。
それでも細々とした用意は残っていて、リエルは休日に王都へ出かけることになった。
「せっかくだし、一緒に見て回ろう」
そう言い出したのはシオンだ。
いつもの黒ローブとたぬきの妖精を模した仮面姿で迎えにきたので、侍女仲間は「パーティも仮面をつけて出席するの?」と心配そうに見送ってくれた。
世話焼き気質のお姉さん侍女たちがお古の服やリボンをくれたので、今日のリエルは薄いクリーム色のワンピース姿。
腰元には亜麻色のリボンがついていて、白い髪をハーフアップスタイルで飾るリボンとお揃いだ。ワンピースの上に灰味を帯びたベージュのコートを羽織ると、準備万端。
彼女たちが「あの仮面、趣味が独特よね」と囁いていても、シオンは聞こえていないように堂々としている。噂されることに慣れているのだ。
シオンはエスコートの手を差し出してくれる。
「さあ、リエル。行こう」
こうした仕草には慣れておらず、思わず視線が泳ぐ。エスコートに身を任せると、自分がお姫様になったような気がした。
「ここだけの話、俺はもともと、女性があまり得意ではないんだ。王子妃のポジション目当てのアプローチが多くて……初恋の人以外、興味もなかった。おかげで、思春期を過ぎてからは、女性に会わないように逃げたり隠れたりした……」
「高貴な身分の方は、大変ですね」
「義務もあるので、どこかで諦めないと、とは思っていたのだが、残念なことに俺はなかなか大人になりきれなかったんだ」
冬の名残を引きずるような湿った冷気が、街路にまだ留まっている。
暦の上では春に入っているはずだが、この国ではそれを実感できる日がなかなか訪れない。
曇天の多い土地柄もあって、季節の歩みは他国より遅いのだ。
今日も空は重たく垂れ込め、冷えを含んだ空気が肌にまとわりついてくる。
人々はそれを当たり前のものとして受け入れている。
「この国は、天候に恵まれているとは言えない」
シオンの言葉は、雨だれのようにリエルの心に沁みていく。
曇天の下に連なる街路を眺めながら話す青年王子の声は、穏やかだ。
「土地は痩せていて、農作物だけで人々の暮らしを支えるには心もとない。日照も足りない。けれど、代わりに伸びたものもある」
彼の視線が、街路脇に並ぶ街灯へと移る。
細身で洗練された柱――その先端で静かに光を放つ吊り鐘型に咲く花をモチーフにした照明は、昼間でも不足しがちな日照を補うように、規則正しく配置されていた。
「魔導具、加工業、芸術。必要に迫られて磨かれた技術だ。我が国は、先祖代々、足りないものを外交力と技術力で補ってきたんだ」
自然に与えられなかったものを、人の技術と知恵で補う。
その積み重ねが、この王都の景観そのものなのだ。
「素敵ですね」
素直な感想が、リエルの唇から自然と零れた。
その言葉に、シオンは誇るように微笑んだ。
「君に素敵だと思ってもらえて、嬉しい」
この王子は、自国が賞賛されると嬉しいのだ。リエルはそれを微笑ましく感じた。そして、彼の体調を案じた。少し痩せたように思えたから。
「……ご体調は、よくなりましたか?」
「俺はいつも元気だよ。心配してくれてありがとう」
シオンはリエルの左手を持ち上げて、指先に口づけを降らせた。とても自然に、愛しげに。
「君に自覚があるか知らないけど、こうして触れ合うと、俺は心が浮かれて、元気になるんだ。君は特別だからね」
「……料理長が以前、『そういう言葉を口にする男性には気をつけろ』と言ってました」
「あの料理長とは一度話し合う必要がありそうだ」
実際のところ、リエルは「困ったものだ」と悩んでいた。
この王子ときたら、立派なことを言ったり、可愛いと思わせてきたり、微笑ましかったり、甘いことを言うので、いけないと思いつつ、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
雲の切れ間から少しだけ日が射して、暖かさを増した風が頬を撫でていく。
シオンが連れて行ってくれた店は、王都でも指折りの高級店ばかりだった。
今、ふたりがいるのは、宝飾品や香油を扱う店が並ぶ一角だ。
ショーケースには細工の細やかな首飾りや指輪が並び、向かいの店では絹のハンカチやリボンが、色ごとに丁寧に揃えられている。
夜会用の化粧品や香水を専門に扱う店もあり、甘く澄んだ香りが通りにほのかに漂っていた。
「他に買いたいものや、気になる店はあるかな? 装飾品かな」
「……やっぱり、そういうのも必要ですよね」
「なくても君の輝きは誰よりも美しいがね」
「さらっと仰るのがすごいですよね、そういうの」
必要最低限の服飾品しか与えられてこなかったリエルには、何から何まで贅沢すぎる品々だ。
無意識に胸から下げた形見のペンダントを握っていると、右側の馬車の行き交う道路際に前方を歩く貴婦人のハンカチが落ちたのが見えた。
リエルは咄嗟に右側へ寄り、拾おうとした。すると。
「――危ない」
低い声と同時に、強引に肩を引き寄せられる。
「え? ……きゃあ!」
「暴走馬車だ!」
「御者が気絶してる……!」
一瞬前までいた空間を、暴走馬車が猛スピードで駆け抜けていく。
シオンに引かれなければ、あの馬車に轢かれていただろう。
それを理解して、ぞっとする。
「……っ、ありがとうございます。私、ぼんやりしていて……」
反射的にそう言って、リエルはシオンを見上げる。
馬車を見ているシオンは返事をせず、一拍遅れてからリエルの肩から手を離した。
聞こえなかったみたいな雰囲気なので、もう一度お礼を言おうかと口を開くと、先に問いかけが降ってきた。
「……怪我はない?」
穴が開きそうなほど見つめられて、リエルは首を振った。
「はい、大丈夫です。ハンカチが落ちてて……」
シオンは落ちていたハンカチを拾い、落とし主に渡してくれた。落とし主の貴婦人が感謝の言葉を口にしたとき、馬車が走っていった先から歓声が上がる。
「ロザミア様だ!」
「暴走馬車を止めてくれたぞ!」
「赤い糸の魔女様と使い魔のフェニックスだ!」
ワアッと賑わう方角から、全身が赤く光る大きな鳥が飛び立つ。
使い魔らしき大きな鳥の背には、薔薇色の髪をなびかせたロザミアがいた。民衆に手を振り、魔塔の方に飛翔していく姿は英雄のようだった。
「ロザミア様が止めてくれたみたいですね」
「彼女は優秀な魔女だからね」
はらりと赤い羽根が舞い降りる。
道路側に落ちたそれをなんとなく拾い上げて、リエルは呟いた。
「そういえば、ロザミアさんって、婚約者候補だって聞きました」
「……」
「幼馴染で仲が良いのですよね? そのまま婚約したらよいのではと思ってしまいますが……」
シオンは、すぐに答えなかった。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬が、ひどく長く感じられた。
「不躾でしたね、すみません」
リエルはぺこりと頭を下げた。
それを見て、シオンが少し慌てた目になった。
「あ……今、何か言ったか?」
「はい……?」
「すまない。聞き逃した」
(……あれ?)
喧騒がふたりの間を自然に埋めていく。
「ちょっと不躾なことをお尋ねしてしまったんです」
「なんだろう? 俺に興味を持ってくれているのだと思うと、嬉しいな」
「でも、質問するようなことじゃないなと思ったので、もういいんです」
「気になるが……?」
じっと口元を見つめるようにして話すシオンが、妙に気になる。リエルは「ひょっとして口元に何か付いているのでは」と心配になった。
こっそりと鏡で確認したが、何も付いていない――安心した。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
一通り見て回ったあと、ふたりは貴族御用達の喫茶店『天使のスプーン』に入店した。
白を基調とした内装とテーブルに、空色の椅子が爽やかな印象だ。
サンドイッチの盛り合わせと香り高い紅茶を頼んだとき、可愛らしい声がした。
「あたくしを置いていくなんて、薄情ですわね」
幽霊猫のケイティだ。
ひょこりとテーブルに飛び乗り、くりくりとした猫目を向けてくる。
ケイティは尻尾をくるりと揺らしながら、当然のようにテーブルの中央に陣取った。
「まったく。買い物にお茶までしておいて、あたくしを呼ばないなんて、水くさいこと」
ケイティはふいっと尻尾を揺らし、シオンの右側へ回り込んだ。ヒゲを揺らして喋る言葉は、ひっそりとしていた。
「殿下って、ほんとうに無茶をなさる方ですわよね」
意味深な眼差しは、何も聞こえていないように紅茶のカップを傾けるシオンに向けられていた。
「……もしかして……」
点と点が一本につながる感覚があった。
「……シオン様は、右耳が聞こえなかったりしますか?」
一瞬の間。
彼の視線が、微妙にずれる。
「ん? ああ、ごめん。なにかな」
意識してみると、引っかかりの正体が見えてくる。
街を歩いている間も、リエルが右側に回ると、シオンは無意識に身体ごと向きを変えていた。
偶然ではない。
気のせいでもない。
リエルは、そう理解してしまった。
明るいと思っていたのに、いつの間にかとっぷりと日が暮れていることに気づいたような気分。
――怖い。
リエルは不穏に騒ぐ胸の鼓動を落ち着かせるために深呼吸をして、試すように、もう一度だけ、左側から言った。
「右側だと聞こえにくいんですか?」
問いかけに、シオンの手が止まる。ティーカップの中で、琥珀色の液面が微かに揺れた。
彼は答えなかった。代わりに、困ったような、それでいてひどく優しい笑みを浮かべる。その沈黙そのものが、残酷な肯定だった。
「シオン様。……代償、ですか?」
「鋭いね」
その声は、どこまでも穏やかだった。けれど、リエルの胸の奥には、氷水を流し込まれたような冷たさが広がる。
脳裏をよぎったのは、あの夜の光景だった。
天へ祈りを捧げ、代償を払って、瘴気竜を退けた――。
シオンは不安を拭い去るように、指先でリエルの頬を優しく撫でた。
「一時的なものだよ」
迷いのない即答だった。
まるで、何度も自分に言い聞かせてきた言葉のように。
「魔力の反動みたいなものさ。ちゃんと、戻る」
その声は穏やかで、軽い。
けれど、リエルの視線は、自然と彼の眼帯へと吸い寄せられた。彼の右目は、代償で失われたのでは?
(……本当に、元通りに回復する……?)
街路に灯る魔導具の火が、この国に不足する日照を補っているように、彼も偽り、平然とした態度を装っている。
そんな現実の全貌が見えてきてリエルが顔色を失っていると、それをよくないと感じたのか、シオンは話題を変えるようにリーフレットを取り出した。
「このあと、青薔薇商会が抱えている有名な劇場で演劇があるんだ。観に行かないか? 今、評判の演目がかかっているんだ……楽しい思い出を作りたいんだ」
わざとらしいくらい明るい声だ。
触れてほしくない場所にピシャリと幕を下ろすような話題変更に、リエルはそれ以上、深刻な話を続けることができなかった。
思い出、という言葉が、なんだか重い。
……重すぎる。
リエルは自分からシオンの手を取り、しっかりと握りしめた。
『こうして触れ合うと、俺は心が浮かれて、元気になるんだ。君は特別だからね』
(本当にそうだったらいい。私が彼を健やかにしてあげたい)
心の中には、新しい望みが生まれていた。
夜会用のドレスは、すでに仕立て屋に注文を済ませている。
それでも細々とした用意は残っていて、リエルは休日に王都へ出かけることになった。
「せっかくだし、一緒に見て回ろう」
そう言い出したのはシオンだ。
いつもの黒ローブとたぬきの妖精を模した仮面姿で迎えにきたので、侍女仲間は「パーティも仮面をつけて出席するの?」と心配そうに見送ってくれた。
世話焼き気質のお姉さん侍女たちがお古の服やリボンをくれたので、今日のリエルは薄いクリーム色のワンピース姿。
腰元には亜麻色のリボンがついていて、白い髪をハーフアップスタイルで飾るリボンとお揃いだ。ワンピースの上に灰味を帯びたベージュのコートを羽織ると、準備万端。
彼女たちが「あの仮面、趣味が独特よね」と囁いていても、シオンは聞こえていないように堂々としている。噂されることに慣れているのだ。
シオンはエスコートの手を差し出してくれる。
「さあ、リエル。行こう」
こうした仕草には慣れておらず、思わず視線が泳ぐ。エスコートに身を任せると、自分がお姫様になったような気がした。
「ここだけの話、俺はもともと、女性があまり得意ではないんだ。王子妃のポジション目当てのアプローチが多くて……初恋の人以外、興味もなかった。おかげで、思春期を過ぎてからは、女性に会わないように逃げたり隠れたりした……」
「高貴な身分の方は、大変ですね」
「義務もあるので、どこかで諦めないと、とは思っていたのだが、残念なことに俺はなかなか大人になりきれなかったんだ」
冬の名残を引きずるような湿った冷気が、街路にまだ留まっている。
暦の上では春に入っているはずだが、この国ではそれを実感できる日がなかなか訪れない。
曇天の多い土地柄もあって、季節の歩みは他国より遅いのだ。
今日も空は重たく垂れ込め、冷えを含んだ空気が肌にまとわりついてくる。
人々はそれを当たり前のものとして受け入れている。
「この国は、天候に恵まれているとは言えない」
シオンの言葉は、雨だれのようにリエルの心に沁みていく。
曇天の下に連なる街路を眺めながら話す青年王子の声は、穏やかだ。
「土地は痩せていて、農作物だけで人々の暮らしを支えるには心もとない。日照も足りない。けれど、代わりに伸びたものもある」
彼の視線が、街路脇に並ぶ街灯へと移る。
細身で洗練された柱――その先端で静かに光を放つ吊り鐘型に咲く花をモチーフにした照明は、昼間でも不足しがちな日照を補うように、規則正しく配置されていた。
「魔導具、加工業、芸術。必要に迫られて磨かれた技術だ。我が国は、先祖代々、足りないものを外交力と技術力で補ってきたんだ」
自然に与えられなかったものを、人の技術と知恵で補う。
その積み重ねが、この王都の景観そのものなのだ。
「素敵ですね」
素直な感想が、リエルの唇から自然と零れた。
その言葉に、シオンは誇るように微笑んだ。
「君に素敵だと思ってもらえて、嬉しい」
この王子は、自国が賞賛されると嬉しいのだ。リエルはそれを微笑ましく感じた。そして、彼の体調を案じた。少し痩せたように思えたから。
「……ご体調は、よくなりましたか?」
「俺はいつも元気だよ。心配してくれてありがとう」
シオンはリエルの左手を持ち上げて、指先に口づけを降らせた。とても自然に、愛しげに。
「君に自覚があるか知らないけど、こうして触れ合うと、俺は心が浮かれて、元気になるんだ。君は特別だからね」
「……料理長が以前、『そういう言葉を口にする男性には気をつけろ』と言ってました」
「あの料理長とは一度話し合う必要がありそうだ」
実際のところ、リエルは「困ったものだ」と悩んでいた。
この王子ときたら、立派なことを言ったり、可愛いと思わせてきたり、微笑ましかったり、甘いことを言うので、いけないと思いつつ、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
雲の切れ間から少しだけ日が射して、暖かさを増した風が頬を撫でていく。
シオンが連れて行ってくれた店は、王都でも指折りの高級店ばかりだった。
今、ふたりがいるのは、宝飾品や香油を扱う店が並ぶ一角だ。
ショーケースには細工の細やかな首飾りや指輪が並び、向かいの店では絹のハンカチやリボンが、色ごとに丁寧に揃えられている。
夜会用の化粧品や香水を専門に扱う店もあり、甘く澄んだ香りが通りにほのかに漂っていた。
「他に買いたいものや、気になる店はあるかな? 装飾品かな」
「……やっぱり、そういうのも必要ですよね」
「なくても君の輝きは誰よりも美しいがね」
「さらっと仰るのがすごいですよね、そういうの」
必要最低限の服飾品しか与えられてこなかったリエルには、何から何まで贅沢すぎる品々だ。
無意識に胸から下げた形見のペンダントを握っていると、右側の馬車の行き交う道路際に前方を歩く貴婦人のハンカチが落ちたのが見えた。
リエルは咄嗟に右側へ寄り、拾おうとした。すると。
「――危ない」
低い声と同時に、強引に肩を引き寄せられる。
「え? ……きゃあ!」
「暴走馬車だ!」
「御者が気絶してる……!」
一瞬前までいた空間を、暴走馬車が猛スピードで駆け抜けていく。
シオンに引かれなければ、あの馬車に轢かれていただろう。
それを理解して、ぞっとする。
「……っ、ありがとうございます。私、ぼんやりしていて……」
反射的にそう言って、リエルはシオンを見上げる。
馬車を見ているシオンは返事をせず、一拍遅れてからリエルの肩から手を離した。
聞こえなかったみたいな雰囲気なので、もう一度お礼を言おうかと口を開くと、先に問いかけが降ってきた。
「……怪我はない?」
穴が開きそうなほど見つめられて、リエルは首を振った。
「はい、大丈夫です。ハンカチが落ちてて……」
シオンは落ちていたハンカチを拾い、落とし主に渡してくれた。落とし主の貴婦人が感謝の言葉を口にしたとき、馬車が走っていった先から歓声が上がる。
「ロザミア様だ!」
「暴走馬車を止めてくれたぞ!」
「赤い糸の魔女様と使い魔のフェニックスだ!」
ワアッと賑わう方角から、全身が赤く光る大きな鳥が飛び立つ。
使い魔らしき大きな鳥の背には、薔薇色の髪をなびかせたロザミアがいた。民衆に手を振り、魔塔の方に飛翔していく姿は英雄のようだった。
「ロザミア様が止めてくれたみたいですね」
「彼女は優秀な魔女だからね」
はらりと赤い羽根が舞い降りる。
道路側に落ちたそれをなんとなく拾い上げて、リエルは呟いた。
「そういえば、ロザミアさんって、婚約者候補だって聞きました」
「……」
「幼馴染で仲が良いのですよね? そのまま婚約したらよいのではと思ってしまいますが……」
シオンは、すぐに答えなかった。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬が、ひどく長く感じられた。
「不躾でしたね、すみません」
リエルはぺこりと頭を下げた。
それを見て、シオンが少し慌てた目になった。
「あ……今、何か言ったか?」
「はい……?」
「すまない。聞き逃した」
(……あれ?)
喧騒がふたりの間を自然に埋めていく。
「ちょっと不躾なことをお尋ねしてしまったんです」
「なんだろう? 俺に興味を持ってくれているのだと思うと、嬉しいな」
「でも、質問するようなことじゃないなと思ったので、もういいんです」
「気になるが……?」
じっと口元を見つめるようにして話すシオンが、妙に気になる。リエルは「ひょっとして口元に何か付いているのでは」と心配になった。
こっそりと鏡で確認したが、何も付いていない――安心した。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
一通り見て回ったあと、ふたりは貴族御用達の喫茶店『天使のスプーン』に入店した。
白を基調とした内装とテーブルに、空色の椅子が爽やかな印象だ。
サンドイッチの盛り合わせと香り高い紅茶を頼んだとき、可愛らしい声がした。
「あたくしを置いていくなんて、薄情ですわね」
幽霊猫のケイティだ。
ひょこりとテーブルに飛び乗り、くりくりとした猫目を向けてくる。
ケイティは尻尾をくるりと揺らしながら、当然のようにテーブルの中央に陣取った。
「まったく。買い物にお茶までしておいて、あたくしを呼ばないなんて、水くさいこと」
ケイティはふいっと尻尾を揺らし、シオンの右側へ回り込んだ。ヒゲを揺らして喋る言葉は、ひっそりとしていた。
「殿下って、ほんとうに無茶をなさる方ですわよね」
意味深な眼差しは、何も聞こえていないように紅茶のカップを傾けるシオンに向けられていた。
「……もしかして……」
点と点が一本につながる感覚があった。
「……シオン様は、右耳が聞こえなかったりしますか?」
一瞬の間。
彼の視線が、微妙にずれる。
「ん? ああ、ごめん。なにかな」
意識してみると、引っかかりの正体が見えてくる。
街を歩いている間も、リエルが右側に回ると、シオンは無意識に身体ごと向きを変えていた。
偶然ではない。
気のせいでもない。
リエルは、そう理解してしまった。
明るいと思っていたのに、いつの間にかとっぷりと日が暮れていることに気づいたような気分。
――怖い。
リエルは不穏に騒ぐ胸の鼓動を落ち着かせるために深呼吸をして、試すように、もう一度だけ、左側から言った。
「右側だと聞こえにくいんですか?」
問いかけに、シオンの手が止まる。ティーカップの中で、琥珀色の液面が微かに揺れた。
彼は答えなかった。代わりに、困ったような、それでいてひどく優しい笑みを浮かべる。その沈黙そのものが、残酷な肯定だった。
「シオン様。……代償、ですか?」
「鋭いね」
その声は、どこまでも穏やかだった。けれど、リエルの胸の奥には、氷水を流し込まれたような冷たさが広がる。
脳裏をよぎったのは、あの夜の光景だった。
天へ祈りを捧げ、代償を払って、瘴気竜を退けた――。
シオンは不安を拭い去るように、指先でリエルの頬を優しく撫でた。
「一時的なものだよ」
迷いのない即答だった。
まるで、何度も自分に言い聞かせてきた言葉のように。
「魔力の反動みたいなものさ。ちゃんと、戻る」
その声は穏やかで、軽い。
けれど、リエルの視線は、自然と彼の眼帯へと吸い寄せられた。彼の右目は、代償で失われたのでは?
(……本当に、元通りに回復する……?)
街路に灯る魔導具の火が、この国に不足する日照を補っているように、彼も偽り、平然とした態度を装っている。
そんな現実の全貌が見えてきてリエルが顔色を失っていると、それをよくないと感じたのか、シオンは話題を変えるようにリーフレットを取り出した。
「このあと、青薔薇商会が抱えている有名な劇場で演劇があるんだ。観に行かないか? 今、評判の演目がかかっているんだ……楽しい思い出を作りたいんだ」
わざとらしいくらい明るい声だ。
触れてほしくない場所にピシャリと幕を下ろすような話題変更に、リエルはそれ以上、深刻な話を続けることができなかった。
思い出、という言葉が、なんだか重い。
……重すぎる。
リエルは自分からシオンの手を取り、しっかりと握りしめた。
『こうして触れ合うと、俺は心が浮かれて、元気になるんだ。君は特別だからね』
(本当にそうだったらいい。私が彼を健やかにしてあげたい)
心の中には、新しい望みが生まれていた。