レンズ越しの純情
「はい、編集長!」

美琴は反射的に立ち上がり、手に持っていたホッチキスをデスクに置いた。

​川北早織は、39歳という若さで『Vivid』を立て直した辣腕編集長だ。今日も隙のないハイブランドのセットアップに身を包み、鋭い眼光を美琴に向けている。

​「天野! 新人モデルの子の迎え、行ってくれない?」

「え? 私ですか? 私はまだ、校正の戻しとサンプルの整理が……」

「お願いできる?」

​早織の声は穏やかだが、そこには拒絶を許さない響きがある。

「大久保が見つけてきた子なんだけど、当の大久保が急な海外取材に出かけちゃってね。13時に駅へ迎えに行くって約束してあるのよ」

​美琴は壁の時計に目をやった。12時15分。今すぐ出なければ間に合わない。

「……分かりました。ちなみに、その子の名前は?」

「水口海都(みずぐち かいと)くん」

「ミズグチ……カイト?」

​聞き慣れない名前に首を傾げる美琴に、早織は満足そうに頷いた。

「ええ、まだ大学生よ。男の子だけど」

「え、男の子ですか? 『Vivid』って女性誌ですよね?」

「そうよ。でも、これからは誌面にもメンズモデルのスパイスを取り入れていきたいの。彼はその第一弾。期待の大型新人なんだから、粗相のないようにね」

​「分かりました。……じゃあ、行ってきます」

​美琴は急いでバッグを掴み、乱れた髪を指先で整えながらエレベーターへと走った。

「水口海都……」

頭の中でその名前を繰り返す。

どんなに生意気な子だろうか。それとも、緊張でガチガチの新人だろうか。

​地下駐車場に停めてある社用車のハンドルを握りながら、
美琴はまだ知る由もなかった。

その「男の子」が、自分のこれまでの価値観を、そして止まっていたはずの恋の時計を、一気に動かしてしまう存在になることを。
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