Room
(第四章)
 自分の部屋の前までの距離が、異様に長く感じられた。
 鍵穴が見えた瞬間、胸の奥が強く締まる。
 ここだ。
 戻ってきた、自分の場所。
 バッグから鍵を取り出す。
 金属音が、やけに大きい。
 手が震えて、うまく差し込めない。
 息を吸おうとして、失敗する。
 吸いすぎて、苦しい。
 涙が、こぼれた。
 鍵を回す。
 ゆっくり。
 もう一度、ゆっくり。
 がちゃり、と音がする。
 その瞬間、腰から力が抜けた。
 ドアを、ほんの少しだけ開ける。
 すぐに閉める。
 もう一度、少しだけ開ける。
 スマートフォンを取り出す。
 画面を点ける。
 いつでも、押せるようにする。
 自分の家なのに、
 かすれた声で「こんばんは」と言おうとする。
 声は、出なかった。
 靴が、目に入る。
 一足だけ。
 きれいに揃えられている。
 自分の靴だった。
 仕事用の革靴。
 左右が揃い、
 つま先が、正面を向いている。
 ドアを閉める。
 家に、入れない。
 その場に、立ち尽くす。
 これは、おかしい。
 自分は、靴を揃えない。
 急いで脱ぎ、そのまま。
 それが、いつもの癖だ。
 記憶は、ある。
 だが、揃えた感触が、どこにも残っていない。
 もう一度、ドアを開ける。
 視線が、自然と他の靴に向かう。
 スニーカー。
 サンダル。
 それらは、揃っていない。
 誰かが、揃えた。
 その考えが、はっきりと形を持つ。
 玄関の奥を見る。
 廊下。
 リビングの暗がり。
 静かだ。
 音は、しない。
 入ってはいけない場所だと、思った。
 鍵を、もう一度見る。
 壊れていない。
 こじ開けられた形跡も、ない。
 それなのに。
 「誰か、入った?」
 その言葉が、心の中で浮かぶ。
 喉が鳴る。
 ここは、自分の家だ。
 それでも、中に入る。
 玄関に立ったまま、
 靴を脱ぐべきかどうか、分からなくなる。
 入っていいのか、判断できない。
 だが、もう、
 外に戻る選択肢もなかった。
 ドアを閉める。
 鍵をかける。
 音を、二回確認する。
 一歩、踏み出す。
 床の感触が、妙によそよそしい。
 玄関で、靴を揃えずに脱ぐ。
 それを、意図的に、
 いつも通りの配置にする。
 それで、安心できるはずだった。
 だが、背後が気になる。
 それでも、
 玄関に立ったまま、
 しばらく動けなかった。
 室内は、暗い。
 カーテンの隙間から、
 外灯の光が、細く入っている。
 照明を点ける。
 一気に、明るくなる。
 何も、ない。
 家具の配置も、
 物の位置も、
 見た限りは、変わっていない。
 形の残る場所は、ない。
 リビングを横切り、キッチンを見る。
 冷蔵庫。
 朝のことが、強くよみがえる。
 だが、今は開けない。
 開けたら、
 また、確認してしまう。
 バッグを床に置き、
 コートを脱ぐ。
< 4 / 4 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop