国宝級御曹司は田舎娘を熱く手ほどき最愛ママにする
一、父からパーティーへの誘い
三月上旬、秋田ではまだまだ寒い土曜日の午後。
祖母、君江が営む中華料理店のテーブルの片隅で、私、久森桜都と中学からの親友・伊藤沙菜は昼食を終え、湯気の立つお茶をすすりながら話していた。
ふいに鼻がムズムズしてきて――。
「へっ、くしゅん!」
くしゃみをした私に、沙菜がテーブルのティッシュを一枚抜いて差し出す。
「はい、桜都」
「ありがとう」
彼女からティッシュをもらう。沙菜は中学の同級生で、二十三歳になった今でも一番の友達だ。
「もしかして、花粉症になったとか?」
「ええっ? まさか……違う……と思う。なったら大変よね」
「目はかゆくない?」
そう聞かれて、目に集中してみる。
「……たぶん、かゆくない」
「それなら、誰かが噂しているのかもよ? 誰だろ~ね?」
沙菜は楽しそうに笑う。
そこへ引き戸のドアがガラッと音を立てて開き、近所のおばさんが入ってくる。
「桜都ちゃん、抹茶マドレーヌ、ある?」
店の入口近くにいた私は、椅子から立っておばさんに笑みを向ける。
「おばさん、いらっしゃい。抹茶マドレーヌ……あ、五つあります」
「んだが~。孫さ持っていぐがら、それも五つけれな」
テーブルの上に並んだ籠の中から、フィナンシェを指さした。
「ありがとうございますっ!」
抹茶マドレーヌとフィナンシェを袋に詰めていく。
「桜都ちゃんの焼いだ菓子、ほんとにうめぇがら~。コーヒーさ、ぴったり合うんだわな」
会計をしていると、厨房にいた祖母が姿を見せる。
「おや、幸子さん、桜都の焼いだ菓子、買ってけだんだが。ありがとさんです」
年齢が近いふたりは、そこで立ち話を始める。
十五時過ぎの店内には、私たちしかいない。
ここは秋田県の片田舎。祖母が何十年も前から営んでいる中華料理店がある。
祖父母が結婚したときに開いた店だが、祖父は私が生まれる前に亡くなっている。それ以来、祖母がひとりで店を切り盛りしてきた。
お客さんは近所の人たちが主で、ときどき旅行客が立ち寄る程度。滅多にないが忙しいときには常連のお客さんが手伝ってくれることもある、そんなアットホームなお店だ。
離婚した母が私を連れて東京から秋田の実家に戻ったのは、小学校を卒業した頃のことだった。
性格の不一致が理由と聞いていたけれど、本当のところはわからない。
結婚前、理学療法士だった母は、実家に戻ってからは車で一時間ほどの総合病院で働き始めた。
都内の病院で外科医をしている父からは生活費と養育費、そして私の製菓専門学校の学費ももらっており助かっていたが、祖母の店の売上はそれほど多くなく、母は今後を考えて復職したのだった。
十二年間の専業主婦生活からの再スタートは、きっと大変だったと思う。
母は三年前、私が二十歳のときに秋田市内に住む会社員の男性と再婚し、この家を出ていった。
相手は母の小学校の同級生。バツイチで子どもはいない。私も何度も会っていて、とても優しい男性だ。ふたりが話している様子を見ると楽しそうで、母に連れ添う人ができてよかったと思う。
再婚した時点で母から『一緒に住もう』と言われたけれど、私は祖母と暮らすことを選んだ。その方が、気兼ねなく生活できるから。
製菓専門学校を卒業した私は、祖母と暮らしながら焼き菓子を焼いて中華料理店の片隅に置いてもらうとともに、オンラインショップを立ち上げて注文・発送を受けている。
沙菜がパソコン関係の専門学校を出たおかげで、ホームページは彼女に作ってもらった。現在、沙菜は代々続く米農家を手伝っているけれど、その技術は今も健在だ。
SNSでも焼き菓子を宣伝したことで、今ではほぼ毎日注文がくるようになった。
購入者からは〝とてもおいしい〟〝しっとりしている〟〝甘さがほどよい〟など、高評価をもらっていて順調だ。
私がお菓子作りを始めたのは、祖母の影響だった。
祖母は、あんこを使った和菓子をよく作ってくれていた。その手もとを見ているうちに、形になっていく過程が楽しくて、自分も作ってみたいと思うようになった。
食べてくれた人に『おいしかった』と言われるのが、なによりうれしかった。
もっといろいろなお菓子を作りたくて、高校卒業後に製菓専門学校へ入学した。
祖母の家から電車で片道一時間半かかったけれど、それも苦ではなく、毎日が楽しかった。
そして卒業後、今の形でのんびりと焼き菓子を売るようになった。
「沙菜、春用の新しい焼き菓子を作ったら、写真撮ってホームページもリニューアルしたいの。いいかな?」
作成料は親友と言えども、わずかだけどちゃんと渡している。
「もちろん! お、ついに春バージョン? どんなの? いつから新作出す?」
沙菜はスケジュールを確認するため、スマートフォンをポケットから取り出す。
「いくつか考えてみたから、二週間以内には」
スマホをいじる手を止めて沙菜は顔を上げる。
「写真撮って、うん。夜なら作業できるから大丈夫よ」
「ありがとう。桜のフィナンシェにしようと思う。ほんのりピンクにして、上にアイシングと桜の花の塩漬けをのせるの。見た目も春っぽくて、写真映えすると思う」
「それ絶対かわいい。春って感じする」
「うん。それから、抹茶と白あんのマドレーヌ。祖母がよく作ってた和菓子のイメージで、ちょっと和風にしてみたいなって」
「おばあちゃんの味、いいね。抹茶は人気あるし、白あんって珍しいかも」
「あと、苺と練乳のパウンドケーキ。苺の甘酸っぱさと練乳の優しさで、春の午後にぴったりな感じにしたい」
「それ、私が食べたいやつよ。イチゴと練乳だなんて最高の組み合わせ」
沙菜が笑う。
「練乳好きだもんね。最後に、よもぎスコーン。地元のよもぎを使って、素朴だけど香り高くて、今言った焼き菓子を全部並べたら綺麗かなって」
「春のラインナップ、完璧よ! 写真撮ってリニューアルするの楽しみになってきた」
沙菜の言葉に、ふっと笑みをこぼす。
彼女の反応がうれしくて、早くも作りたくなった。
三十分後、車で十分ほどの自宅に沙菜が帰り、私はお店の裏にある母屋へ戻り夕食の支度を始める。
まだ食事までには時間があるが、その後に焼き菓子の試作品を作りたいので早めに用意することにした。
昼食はいつも祖母が作る中華料理でラーメンや炒め物、天津飯などを食べるが、夕食はほぼ和食にしている。和食といっても、煮魚や煮物などの簡単な料理だ。
根菜類を切って、鍋でコトコト煮ているうちに、桜のフィナンシェの試作品の材料を計り始めた。
中華料理店は二十時まで。それから祖母とふたり夕食を取る。
菓子の計量はきっちりと。けれど、ほかの料理は少しぐらい分量が違っても気にしない。祖母もそれを知っていて、『味っこは、気持ぢで決まるもんだべな』と笑う。
大雑把な性格は、身なりにもそのまま表れている。
服はいつもスウェットやトレーナー、パーカーにダボッとしたジーンズばかり。
母がときどき買ってきてくれるワンピースやおしゃれな服は、タンスにしまったまま袖を通すこともない。
二十三歳にもなっても、異性にはとくに関心がなく、おしゃれにも気を使わない。メイクはしたことがなく、ショートヘアだった頃は、うしろ姿で男の子に間違われることもよくあった。
沙菜いわく、私は色白で、目はぱっちりしており、鼻筋が通っていて、唇は少しぽってりしているから、メイクをすればもっとかわいくなるらしい。
でも、顔を合わせるのは近所の人くらい。毎日メイクなんてしていられないし、必要性も感じない。そもそも苦手だ。
沙菜に感心するのは、毎日きっちりメイクをしているところ。
『田んぼに出るから、これ以上そばかすが増えるのは嫌なの』と言うけれど、カラコンとつけまつげはさすがに必要ない気がする。
専門学校時代に短く切った私の髪は伸びて、普段は黒ゴムでひとつに結ぶだけ。
沙菜は『テキトーなのが桜都のいいとこだけど、少しはしゃれっ気出しなよ』と言って、シュシュをプレゼントしてくれたこともある。
彼女が来るとわかっている日は、もらったシュシュで髪を結ぶこともある。
でも結局、しっくりくるのは黒ゴム。それが自分らしい気がして、つい手に取ってしまう。
「おや、いい匂いっこだごど」
祖母が台所に入ってきた。
ハッとして時計を見ると、十九時三十分。
いつもより三十分早い閉店だったが、近所の人たちはラストオーダーが十九時三十分だと知っているから、もうお客さんは来ないと判断して店を閉めたのだろう。
「おばあちゃん、お疲れさま。試作品焼いてたんだ。なかなかの出来だよ。夕飯の後、試食してみて」
桜の形に焼いたフィナンシェの上には、白いアイシングクリームと桜の塩漬け。見た目もかわいらしく仕上がった。
「めんこいな。どれ、後で食うべ」
〝めんこい〟はかわいいという意味だ。
祖母は笑顔でガス台の前に立ち、味噌汁を温め始める。
こたつの上に、煮物と味噌汁、炊きたてのご飯が並ぶ。
祖母が湯気の立つ味噌汁をすすってから、ぽつりと口を開く。
「今日も、沙菜ちゃんと楽しそうだったの」
「うん、おばあちゃんのエビそばのファンだしね」
「そんだが。ありがてごどだなぁ」
箸を動かしながら、祖母は煮物の大根を口に運ぶ。
「試しの菓子、まだいろいろ作るつもりだが?」
「うん、あと何種類か。桜のフィナンシェは見た目はばっちり。味もいいはず。桜の塩漬けがいいアクセントになってると思う」
「ほれ、味っこは気持ぢで決まるもんだべな」
その言葉に、私は思わず笑ってしまう。
「おばあちゃんの口癖だね」
「んだが? 何回言ってもいい言葉っこだべ」
ふたりで笑いながら、ご飯を口に運ぶ。
ぬくぬくとしたこたつで祖母とふたりでの食事は温かくて、ほっこりした気分になれる。
夕食を終え、祖母が台所でコーヒーを入れる間に食器を片づけていると、テーブルの上のスマホが鳴った。
画面には【父】の文字。久しぶりの着信だ。
「もしもし」
テーブルを拭きながら出る。
《桜都か。元気にしてるか》
声は相変わらず低く、感情の起伏が少ない。
「うん。元気よ」
《そうか。で、本題だが──二カ月後、病院の院長主催のパーティーがある。出てみないか?》
突然の話に、テーブルを拭く手が止まる。
「……どうして急にそんな話をするの?」
《ちょっとテレビ電話にしてくれないか?》
「え? う、うん」
スマホをタップしてテレビ電話にすると、ここ五年ほど会っていないが記憶通りの父の顔が映る。
その顔が一瞬、絶句したように見えた。
「お父さん、どうかした?」
《いや……風呂に入ったのか?》
「ううん。まだ。なんでそんなこと聞くの?」
そう尋ねると、父が気まずそうな顔になる。そこへ祖母がマグカップをふたつのせたトレイを持ってくる。
「おやまぁ、正志さん? ひさしぶりだごど~」
「うん。パーティーに出ないかって」
すると、トレイをテーブルに置いた祖母が私の横に来てスマホを覗き込む。
《君江さん、お元気そうでなによりです》
「パーティーって?」
《ええ。二カ月後に病院長主催のパーティーがあるので》
父の言葉に、祖母はケタケタおかしそうに笑う。
おしゃれとはほど遠い私がパーティーに行くなんて、想像もできないのだろう。
「お父さん、私行きたくない。場違いだよ」
《だが、いつまでもそのままでは嫁にも行けないだろう。もしかして恋人がいるのか?》
「いないよ。別に結婚しなくてもかまわないし」
そう言った途端、祖母がポカッと私の頭を叩く。
「お、おばあちゃんっ」
「結婚しねくてもいいって、そりゃだめだべ! これから長ぇ人生だもの、ひとりで寂しく年取っていぐなんて、勧めらんねぇわ」
《君江さんもそう言っている。一度こっちに来ないか? もとはかわいいんだから、磨けば私も恥をかかないで済む》
もとはかわいいんだから……今はそう見えないってこと……。
そう言われて、普段は気にしない私でも少しショックを受けた。
「桜都、正志さんの言う通り、ひさしぶりに東京さ行ってみればいいべ」
「おばあちゃん……」
気が進まないものの祖母に勧められて、父が休みの今週土曜日に行くことになった。
通話を終えた後、祖母が入れてくれた甘いコーヒーの湯気にほっと息をつく。
祖母は桜フィナンシェをふたつに割ってから、ひとつを口に入れてゆっくりそしゃくする。少しして、目尻を下げながら口を開く。
「この桜の塩漬け、ええあんべだなぁ。桜都、んまいわぁ」
「よかった。じゃあ、明日食べに来たお客さんに試食してもらおうっと」
「東京さ行ぐ準備もせねばなんねぇど」
「準備って、まだ一週間近くあるよ。それに、お父さんに会うだけなんだから一泊分で充分でしょ」
「こんたな機会は滅多にねぇ。しったげめんけぇ女っこになって帰ってこいな」
今まで異性の目を気にしてなかったし、恋人が欲しいと思わなかった。けれど、自分が年を取ったとき、連れ添う人がいたらいいなとは思う。
祖母の言う通りかもしれない。少しずつでも変わって、自信を持った女性になれたら、いつ何時出会いがあっても、困らないはず。
翌日、十三時半を過ぎる頃には、昼食を終えた客たちの姿はすっかり消えていた。代わりに、いつものように沙菜が店に現れる。
「今日もいい天気だねぇ」
「あ、沙菜。お疲れ!」
いつもの席に沙菜が腰を下ろすのを見て、コップに水を注いで近づく。
「なににする? エビそば?」
「う~ん……今日は中華丼にする!」
「伝えてくる」
そう言って席を離れ、カウンターへ向かう。
厨房にいる祖母に、中華丼をふたつ頼んだ後、昨日作った桜のフィナンシェを手に戻る。向かいの席に腰を下ろすと、彼女の目がぱっと輝いた。
「お! かわいいね!」
「うん。食べてみて」
沙菜はフィナンシェを手に取り、透明の包みを丁寧に開けて、半分をパクッと口に運ぶ。春の香りを味わうように、ゆっくりとそしゃくする。
「んー、おいしいっ! 春だぁ。春が待ち遠しいよ」
「おじさんとおばさんにも食べてもらって。後で袋に入れる」
「サンキュ。喜ぶよ」
沙菜の笑顔を見て、桜のフィナンシェは成功だと確信する。
彼女は率直な性格で、口に合わないものには遠慮なく意見を言う。だからこそ、その笑顔がなによりも信頼できる。
「ところで沙菜、私、ちょっと東京へ行ってくる」
「え? 東京に? おしゃれなパティスリーにでも偵察に行くの?」
「ううん。時間があったら行きたいけど。昨晩、父から電話があって、病院のパーティーに出てみないかって言われたの。二カ月後に東京であるんだって」
「パーティー? 東京でパーティーだなんて、なんだかすごそう。二カ月ずっと向こうにいるの?」
「土曜に出発して、日曜には戻ってくるよ。父が『一度こっちに来ないか?』って。とりあえず話を聞いてくるだけ。〝磨けば恥をかかない〟って言ってるの。磨くって、どういうことをするのかわからないんだけど」
沙菜は少しだけ真剣な表情で私の顔を見つめる。
「それ、言い方ひどくない? 自分の娘に。でもまあ……たしかに、今のままだと〝素朴すぎる〟のかもね」
「沙菜までそんなこと言う?」
「違う違う、悪い意味じゃなくて。桜都は素材がいいんだから、ちょっと手を加えたら絶対綺麗になるって。私、ずっとそう思ってたよ」
「……でも、私、そういうの苦手だし。メイクとか、服とか」
「うん、知ってる。でもちょっとくらい挑戦してみてもいいんじゃない? 別に誰かのためじゃなくて、自分のためにさ。いい機会だと思う」
「昨晩のお父さんの反応から、自分がいかにひどいのか身に染みたんだ。おばあちゃんの勧めもあったからとりあえず行ってくる。パーティーに出るのは気が進まないけどね」
「せっかくだから出てみたらいいのに。いつかきっかけをつくってくれた父親に感謝するかもしれないよ?」
父のことは嫌いじゃない。でも、医者として忙しく、遊んでもらった記憶はほとんどない。それに離婚は小学六年生の私にとって大きな衝撃だった。
とはいえ、こっちに来てからの生活費も専門学校の学費も支払ってくれている。だから、放っておかれているわけじゃないと思っている。
母も今は、新しい旦那様と幸せに暮らしている。だからこそ、父にも幸せになってほしい。
土曜日の朝、沙菜の運転で角館駅まで送ってもらい、秋田新幹線に乗って、一路東京駅へ向かった。
祖母の家から港区にある父の自宅までは五時間くらいだ。
父は離婚後、広い家はいらないという理由で実家の戸建てからほど近いマンションへと引っ越した。かつて私たちは、父の実家で祖父母と同居していた。祖母は私が幼稚園の頃に、祖父は小学校五年生のときに病気で亡くなっている。
秋田の祖母の家に住み始めてから、父のもとを訪れるのはこれが初めてだ。
スマホのアプリを頼りに、最寄り駅まではたどり着けるはず。
そう思いながらも、少し緊張していた。
車窓から流れる景色を眺めながら、胸の奥に小さな不安と期待が混ざり合うのを感じていた。
東京駅に到着し、乗り換えの地下鉄へ向かう途中、ふと立ち食いそばの店が目に入った。
すでに十三時を過ぎていて、朝からカフェオレしか口にしていない。漂ってくるそばの香りに、思わずおなかが鳴りそうになる。
カフェのようなおしゃれなお店には入りづらいけれど、ここなら……。
匂いに誘われるようにして、立ち食いそば店のドアを開けた。
入口にある食券機で、迷わずタヌキそばを選ぶ。食券をカウンターの中の女性に渡し、そばができるのを待ちながら、沙菜にメッセージを送った。
【無事、東京駅到着!】
ほどなくして、目の前にタヌキそばが置かれる。スマホで写真を撮り、沙菜に送信する。するとすぐに返信がくる。
【やだ! 東京なんだから、もっとおしゃれな食事しなよ!】
彼女らしいメッセージに笑う。
【だって、そんなところ怖くて入れない】
【もー、私もついていけばよかった】
一緒だったら楽しかっただろう。珍道中になったかもしれない。
【私もそう思った。じゃあ、またね】
スマホをポケットにしまい、湯気の立つタヌキそばに箸を伸ばす。素朴だけれど、ほっとする味だった。
地下鉄を乗り継いで麻布十番駅に着いたのは十四時近かった。最寄り駅に迎えに来てくれる父には途中で連絡し、到着時間をメッセージで送った。
「お父さんっ!」
思わず手を振りながら駆け寄ると、父は少し困ったような顔で首をかしげた。
「桜都、もう少し……」
父の表情が困惑気味で、首をかしげる。
「もう少し、なに?」
「いや……彼に頼めばいい……」
「彼? なにを頼むの?」
父の言葉の意味がわからなくて尋ねるが、「荷物はそれだけか?」と別の話になる。
私の荷物は専門学校時代に使っていたリュックサックに入っている。
「そうよ。一泊分だけだから」
「一泊だけ?」
父はギョッと目を見開く。
「そうじゃないの?」
「今のお前を見ていたら、無理って話だ。とりあえず家に行こう」
父は歩き始め、私は当惑しつつ後を追う。
一泊だけのつもりだったのに――なにが〝無理〟なんだろう。
父の後をついて歩きながら、周囲の景色に目を奪われる。
高層マンションが並び、ガラス張りのカフェやブティックが軒を連ねる街並み。見慣れない外国語の看板や、すれ違う人々の洗練された服装に、思わず足がすくみそうになる。
私が小学校卒業まで住んでいた町は、こんなに都会だったっけ?
幼い頃に歩いたはずの道なのに、記憶の中の風景とはまるで違って見える。
うっすらと覚えている公園の角や、母と手をつないで歩いた坂道が、今ではすっかり様変わりしていた。
「ついてきてるか?」
キョロキョロと辺りを見回しながら足を運ぶ私の数歩前を歩く父が振り返って、声をかける。
「うん、大丈夫」
そう答えながらも、心の中では少しだけ不安が膨らんでいた。
一泊で済まないのなら、数日滞在することになる。早く秋田へ帰って、サイトリニューアル作業に取りかかりたいのに……。
父の家は、駅から少し坂を上った先にある白いマンションだった。
五階建てで外壁は清潔感のある白で統一され、植え込みの緑も丁寧に手入れされている。
エントランスにはオートロックと宅配ボックスがあり、ガラス張りの扉の向こうには、静かなロビーが広がっていた。
エレベーターで三階に上がり、父が鍵を差し込んで開けた玄関へ促される。
「入りなさい」
靴を脱いで中に入ると、すぐにわかる。この部屋は、生活感が薄い。
2LDKの間取りで、リビングは広め。白とグレーを基調にしたシンプルなインテリア。
大きな窓からはやわらかな光が差し込み、壁際には薄型のテレビと、ガラスのローテーブル。ソファは深いネイビーで、座り心地がよさそうだ。
カウンター式のキッチンは料理をしている雰囲気はあまりないけれど、調理器具はひと通り揃っているようだ。
「荷物、そっちの部屋に置いていいぞ」
父の声に振り返ると、リビングの奥にある一室を指していた。
どうやら、そこが私の寝泊まりする部屋らしい。
「わかった」
リュックを下ろしながら、もう一度部屋を見渡す。
仕事が忙しいのだろう。以前住んでいた戸建ては祖父母もいたから生活感にあふれていたけれど、ここは寝るだけの家に思えた。
「お父さん、自炊はする?」
「いや……」
ふいに父がかわいそうになって胸が痛む。
「あ、私が作った焼き菓子を持ってきたの。お父さん、嫌いじゃなかったよね?」
「ああ。コーヒーくらいは入れられる。飲むか?」
「うん。手伝うよ」
キッチンに並んで立つのは、なんだか少し照れくさい。けれど、コーヒーメーカーから豆の香ばしい香りが漂ってきて、気持ちがふっと和らいだ。
コポコポとコーヒーが落ちるのを見てから、置いたリュックのところへ戻って袋包みを持ってくる。
中に入っているのは桜のフィナンシェと店で評判の抹茶マドレーヌだ。
丁寧に包んだ袋を差し出すと、父は少し驚いたように目を細めた。
「お前が作ったのか?」
「うん。話したよね? 専門学校を卒業して、ネットで販売してるんだよ」
「ん、ああ……そうだったな」
たっぷり落ちたコーヒーをふたつのカップに注いで、自分用には砂糖を加え、センターテーブルへ移動した。
「食べてみて」
父は包みを開け、桜のフィナンシェをひとつ手に取って口に運ぶ。しばらく無言のまま、ゆっくりとそしゃくしていた。
「……うまいな。甘さが控えめで、香りがいい」
「ほんと?」
「本当だ」
「抹茶マドレーヌは人気なの。この桜のフィナンシェはこれからお店に出すつもり」
「そうか……」
父はコーヒーをひと口飲んでから、抹茶マドレーヌを食べる。
「お父さん、私はここでなにをすればいいの?」
「パーティーに出てもおかしくないようにいろいろ学ぶんだ」
「いろいろ学ぶ……?」
それがどういうことなのか、まったくわからない。
「どうやって学べばいいの? パーティーに出てもおかしくないように学べる学校があるとか……?」
「まあ、そういう学校も海外にはあるな。それよりも最高の先生に頼んでいる」
「学校よりもすごい、最高の先生に?」
きっと品にあふれた淑女の先生だよね。そんな人から習うなんて私にできるのだろうか。
「ああ。月曜にパスポートを申請後、伏見さんのところへ連れていく。お前は泊まりがけで作法や身なりを整えるんだ」
「パスポート申請?」
「ああ。住民票を持ってきただろうな?」
電話の後、パーティーのために身分証明書が必要だから住民票を取って持ってくるようにとのメッセージはもらっていた。なにに使うかわからなかったが、とりあえず役所に出向いたのだ。
「え? う、うん。でもどうしてパスポートを?」
「伏見さんは忙しい方で、ほとんど日本にいない。たまたま帰国しているところをつかまえられたが、仕事で海外へ飛ぶ可能性もある。そのときにはお前も同行するかもしれない」
「そんな何日も、その伏見さんという人の家にいるの?」
「お前がどこに出しても恥ずかしくない淑女になるまでだ」
ということは、一日や二日で習得できるものではないと考える。そうなるとサイトのリニューアルは、今はできない……。
「お父さんは私が恥ずかしいのね?」
「パーティーに出てもらうにはだ。私にはがんばってくれとしか言えない。いい機会だと思ったから来てくれたんだろう?」
「……おばあちゃんにも勧められたから」
「はっきり言う。今のままでは一生結婚はできないぞ。お前みたいな女を男は避ける」
父の言葉には傷ついた。
「……結婚しなくていいし」
「君江さんがいつまでも長生きしてくれるのが願いだが、もうかなりの年だ。そうなればお前はひとりで寂しく、不便な田舎で生きていくんだぞ?」
いつかは祖母が私の前からいなくなってしまうことを考えると、胸がギュッと締めつけられる。
「君江さんだって、桜都に幸せな結婚をしてほしいと思っているはずだ」
「わかっているけど……お父さんが今の私を恥だと思っているんなら、パーティーには出ない方がいいと思う」
「言っただろう? パーティーには出てもらう。お前を恥だとは思わないが、もう少し身なりに気をつけた方がいいと思った。桜都、お前は磨けば誰よりも綺麗になる」
父は私を変えたいのだ。秋田にいれば別に周りの人からはなにも言われないから、まったく気にしなかった。
でも──おばあちゃんの言葉が、胸に突き刺さった。
『結婚しねくてもいいって、そりゃだめだべ! これから長ぇ人生だもの、ひとりで寂しく年取っていぐなんて、勧めらんねぇわ』
「……私がこの先で心配なのはおばあちゃん。おばあちゃんのためなら……びっくりするくらい変身してみよう……かな……」
「腰を抜かすくらい変身すると思うよ」
「それじゃ困る」
そう言葉にすると、父は「ハハハ、そうだな」と笑った。
祖母、君江が営む中華料理店のテーブルの片隅で、私、久森桜都と中学からの親友・伊藤沙菜は昼食を終え、湯気の立つお茶をすすりながら話していた。
ふいに鼻がムズムズしてきて――。
「へっ、くしゅん!」
くしゃみをした私に、沙菜がテーブルのティッシュを一枚抜いて差し出す。
「はい、桜都」
「ありがとう」
彼女からティッシュをもらう。沙菜は中学の同級生で、二十三歳になった今でも一番の友達だ。
「もしかして、花粉症になったとか?」
「ええっ? まさか……違う……と思う。なったら大変よね」
「目はかゆくない?」
そう聞かれて、目に集中してみる。
「……たぶん、かゆくない」
「それなら、誰かが噂しているのかもよ? 誰だろ~ね?」
沙菜は楽しそうに笑う。
そこへ引き戸のドアがガラッと音を立てて開き、近所のおばさんが入ってくる。
「桜都ちゃん、抹茶マドレーヌ、ある?」
店の入口近くにいた私は、椅子から立っておばさんに笑みを向ける。
「おばさん、いらっしゃい。抹茶マドレーヌ……あ、五つあります」
「んだが~。孫さ持っていぐがら、それも五つけれな」
テーブルの上に並んだ籠の中から、フィナンシェを指さした。
「ありがとうございますっ!」
抹茶マドレーヌとフィナンシェを袋に詰めていく。
「桜都ちゃんの焼いだ菓子、ほんとにうめぇがら~。コーヒーさ、ぴったり合うんだわな」
会計をしていると、厨房にいた祖母が姿を見せる。
「おや、幸子さん、桜都の焼いだ菓子、買ってけだんだが。ありがとさんです」
年齢が近いふたりは、そこで立ち話を始める。
十五時過ぎの店内には、私たちしかいない。
ここは秋田県の片田舎。祖母が何十年も前から営んでいる中華料理店がある。
祖父母が結婚したときに開いた店だが、祖父は私が生まれる前に亡くなっている。それ以来、祖母がひとりで店を切り盛りしてきた。
お客さんは近所の人たちが主で、ときどき旅行客が立ち寄る程度。滅多にないが忙しいときには常連のお客さんが手伝ってくれることもある、そんなアットホームなお店だ。
離婚した母が私を連れて東京から秋田の実家に戻ったのは、小学校を卒業した頃のことだった。
性格の不一致が理由と聞いていたけれど、本当のところはわからない。
結婚前、理学療法士だった母は、実家に戻ってからは車で一時間ほどの総合病院で働き始めた。
都内の病院で外科医をしている父からは生活費と養育費、そして私の製菓専門学校の学費ももらっており助かっていたが、祖母の店の売上はそれほど多くなく、母は今後を考えて復職したのだった。
十二年間の専業主婦生活からの再スタートは、きっと大変だったと思う。
母は三年前、私が二十歳のときに秋田市内に住む会社員の男性と再婚し、この家を出ていった。
相手は母の小学校の同級生。バツイチで子どもはいない。私も何度も会っていて、とても優しい男性だ。ふたりが話している様子を見ると楽しそうで、母に連れ添う人ができてよかったと思う。
再婚した時点で母から『一緒に住もう』と言われたけれど、私は祖母と暮らすことを選んだ。その方が、気兼ねなく生活できるから。
製菓専門学校を卒業した私は、祖母と暮らしながら焼き菓子を焼いて中華料理店の片隅に置いてもらうとともに、オンラインショップを立ち上げて注文・発送を受けている。
沙菜がパソコン関係の専門学校を出たおかげで、ホームページは彼女に作ってもらった。現在、沙菜は代々続く米農家を手伝っているけれど、その技術は今も健在だ。
SNSでも焼き菓子を宣伝したことで、今ではほぼ毎日注文がくるようになった。
購入者からは〝とてもおいしい〟〝しっとりしている〟〝甘さがほどよい〟など、高評価をもらっていて順調だ。
私がお菓子作りを始めたのは、祖母の影響だった。
祖母は、あんこを使った和菓子をよく作ってくれていた。その手もとを見ているうちに、形になっていく過程が楽しくて、自分も作ってみたいと思うようになった。
食べてくれた人に『おいしかった』と言われるのが、なによりうれしかった。
もっといろいろなお菓子を作りたくて、高校卒業後に製菓専門学校へ入学した。
祖母の家から電車で片道一時間半かかったけれど、それも苦ではなく、毎日が楽しかった。
そして卒業後、今の形でのんびりと焼き菓子を売るようになった。
「沙菜、春用の新しい焼き菓子を作ったら、写真撮ってホームページもリニューアルしたいの。いいかな?」
作成料は親友と言えども、わずかだけどちゃんと渡している。
「もちろん! お、ついに春バージョン? どんなの? いつから新作出す?」
沙菜はスケジュールを確認するため、スマートフォンをポケットから取り出す。
「いくつか考えてみたから、二週間以内には」
スマホをいじる手を止めて沙菜は顔を上げる。
「写真撮って、うん。夜なら作業できるから大丈夫よ」
「ありがとう。桜のフィナンシェにしようと思う。ほんのりピンクにして、上にアイシングと桜の花の塩漬けをのせるの。見た目も春っぽくて、写真映えすると思う」
「それ絶対かわいい。春って感じする」
「うん。それから、抹茶と白あんのマドレーヌ。祖母がよく作ってた和菓子のイメージで、ちょっと和風にしてみたいなって」
「おばあちゃんの味、いいね。抹茶は人気あるし、白あんって珍しいかも」
「あと、苺と練乳のパウンドケーキ。苺の甘酸っぱさと練乳の優しさで、春の午後にぴったりな感じにしたい」
「それ、私が食べたいやつよ。イチゴと練乳だなんて最高の組み合わせ」
沙菜が笑う。
「練乳好きだもんね。最後に、よもぎスコーン。地元のよもぎを使って、素朴だけど香り高くて、今言った焼き菓子を全部並べたら綺麗かなって」
「春のラインナップ、完璧よ! 写真撮ってリニューアルするの楽しみになってきた」
沙菜の言葉に、ふっと笑みをこぼす。
彼女の反応がうれしくて、早くも作りたくなった。
三十分後、車で十分ほどの自宅に沙菜が帰り、私はお店の裏にある母屋へ戻り夕食の支度を始める。
まだ食事までには時間があるが、その後に焼き菓子の試作品を作りたいので早めに用意することにした。
昼食はいつも祖母が作る中華料理でラーメンや炒め物、天津飯などを食べるが、夕食はほぼ和食にしている。和食といっても、煮魚や煮物などの簡単な料理だ。
根菜類を切って、鍋でコトコト煮ているうちに、桜のフィナンシェの試作品の材料を計り始めた。
中華料理店は二十時まで。それから祖母とふたり夕食を取る。
菓子の計量はきっちりと。けれど、ほかの料理は少しぐらい分量が違っても気にしない。祖母もそれを知っていて、『味っこは、気持ぢで決まるもんだべな』と笑う。
大雑把な性格は、身なりにもそのまま表れている。
服はいつもスウェットやトレーナー、パーカーにダボッとしたジーンズばかり。
母がときどき買ってきてくれるワンピースやおしゃれな服は、タンスにしまったまま袖を通すこともない。
二十三歳にもなっても、異性にはとくに関心がなく、おしゃれにも気を使わない。メイクはしたことがなく、ショートヘアだった頃は、うしろ姿で男の子に間違われることもよくあった。
沙菜いわく、私は色白で、目はぱっちりしており、鼻筋が通っていて、唇は少しぽってりしているから、メイクをすればもっとかわいくなるらしい。
でも、顔を合わせるのは近所の人くらい。毎日メイクなんてしていられないし、必要性も感じない。そもそも苦手だ。
沙菜に感心するのは、毎日きっちりメイクをしているところ。
『田んぼに出るから、これ以上そばかすが増えるのは嫌なの』と言うけれど、カラコンとつけまつげはさすがに必要ない気がする。
専門学校時代に短く切った私の髪は伸びて、普段は黒ゴムでひとつに結ぶだけ。
沙菜は『テキトーなのが桜都のいいとこだけど、少しはしゃれっ気出しなよ』と言って、シュシュをプレゼントしてくれたこともある。
彼女が来るとわかっている日は、もらったシュシュで髪を結ぶこともある。
でも結局、しっくりくるのは黒ゴム。それが自分らしい気がして、つい手に取ってしまう。
「おや、いい匂いっこだごど」
祖母が台所に入ってきた。
ハッとして時計を見ると、十九時三十分。
いつもより三十分早い閉店だったが、近所の人たちはラストオーダーが十九時三十分だと知っているから、もうお客さんは来ないと判断して店を閉めたのだろう。
「おばあちゃん、お疲れさま。試作品焼いてたんだ。なかなかの出来だよ。夕飯の後、試食してみて」
桜の形に焼いたフィナンシェの上には、白いアイシングクリームと桜の塩漬け。見た目もかわいらしく仕上がった。
「めんこいな。どれ、後で食うべ」
〝めんこい〟はかわいいという意味だ。
祖母は笑顔でガス台の前に立ち、味噌汁を温め始める。
こたつの上に、煮物と味噌汁、炊きたてのご飯が並ぶ。
祖母が湯気の立つ味噌汁をすすってから、ぽつりと口を開く。
「今日も、沙菜ちゃんと楽しそうだったの」
「うん、おばあちゃんのエビそばのファンだしね」
「そんだが。ありがてごどだなぁ」
箸を動かしながら、祖母は煮物の大根を口に運ぶ。
「試しの菓子、まだいろいろ作るつもりだが?」
「うん、あと何種類か。桜のフィナンシェは見た目はばっちり。味もいいはず。桜の塩漬けがいいアクセントになってると思う」
「ほれ、味っこは気持ぢで決まるもんだべな」
その言葉に、私は思わず笑ってしまう。
「おばあちゃんの口癖だね」
「んだが? 何回言ってもいい言葉っこだべ」
ふたりで笑いながら、ご飯を口に運ぶ。
ぬくぬくとしたこたつで祖母とふたりでの食事は温かくて、ほっこりした気分になれる。
夕食を終え、祖母が台所でコーヒーを入れる間に食器を片づけていると、テーブルの上のスマホが鳴った。
画面には【父】の文字。久しぶりの着信だ。
「もしもし」
テーブルを拭きながら出る。
《桜都か。元気にしてるか》
声は相変わらず低く、感情の起伏が少ない。
「うん。元気よ」
《そうか。で、本題だが──二カ月後、病院の院長主催のパーティーがある。出てみないか?》
突然の話に、テーブルを拭く手が止まる。
「……どうして急にそんな話をするの?」
《ちょっとテレビ電話にしてくれないか?》
「え? う、うん」
スマホをタップしてテレビ電話にすると、ここ五年ほど会っていないが記憶通りの父の顔が映る。
その顔が一瞬、絶句したように見えた。
「お父さん、どうかした?」
《いや……風呂に入ったのか?》
「ううん。まだ。なんでそんなこと聞くの?」
そう尋ねると、父が気まずそうな顔になる。そこへ祖母がマグカップをふたつのせたトレイを持ってくる。
「おやまぁ、正志さん? ひさしぶりだごど~」
「うん。パーティーに出ないかって」
すると、トレイをテーブルに置いた祖母が私の横に来てスマホを覗き込む。
《君江さん、お元気そうでなによりです》
「パーティーって?」
《ええ。二カ月後に病院長主催のパーティーがあるので》
父の言葉に、祖母はケタケタおかしそうに笑う。
おしゃれとはほど遠い私がパーティーに行くなんて、想像もできないのだろう。
「お父さん、私行きたくない。場違いだよ」
《だが、いつまでもそのままでは嫁にも行けないだろう。もしかして恋人がいるのか?》
「いないよ。別に結婚しなくてもかまわないし」
そう言った途端、祖母がポカッと私の頭を叩く。
「お、おばあちゃんっ」
「結婚しねくてもいいって、そりゃだめだべ! これから長ぇ人生だもの、ひとりで寂しく年取っていぐなんて、勧めらんねぇわ」
《君江さんもそう言っている。一度こっちに来ないか? もとはかわいいんだから、磨けば私も恥をかかないで済む》
もとはかわいいんだから……今はそう見えないってこと……。
そう言われて、普段は気にしない私でも少しショックを受けた。
「桜都、正志さんの言う通り、ひさしぶりに東京さ行ってみればいいべ」
「おばあちゃん……」
気が進まないものの祖母に勧められて、父が休みの今週土曜日に行くことになった。
通話を終えた後、祖母が入れてくれた甘いコーヒーの湯気にほっと息をつく。
祖母は桜フィナンシェをふたつに割ってから、ひとつを口に入れてゆっくりそしゃくする。少しして、目尻を下げながら口を開く。
「この桜の塩漬け、ええあんべだなぁ。桜都、んまいわぁ」
「よかった。じゃあ、明日食べに来たお客さんに試食してもらおうっと」
「東京さ行ぐ準備もせねばなんねぇど」
「準備って、まだ一週間近くあるよ。それに、お父さんに会うだけなんだから一泊分で充分でしょ」
「こんたな機会は滅多にねぇ。しったげめんけぇ女っこになって帰ってこいな」
今まで異性の目を気にしてなかったし、恋人が欲しいと思わなかった。けれど、自分が年を取ったとき、連れ添う人がいたらいいなとは思う。
祖母の言う通りかもしれない。少しずつでも変わって、自信を持った女性になれたら、いつ何時出会いがあっても、困らないはず。
翌日、十三時半を過ぎる頃には、昼食を終えた客たちの姿はすっかり消えていた。代わりに、いつものように沙菜が店に現れる。
「今日もいい天気だねぇ」
「あ、沙菜。お疲れ!」
いつもの席に沙菜が腰を下ろすのを見て、コップに水を注いで近づく。
「なににする? エビそば?」
「う~ん……今日は中華丼にする!」
「伝えてくる」
そう言って席を離れ、カウンターへ向かう。
厨房にいる祖母に、中華丼をふたつ頼んだ後、昨日作った桜のフィナンシェを手に戻る。向かいの席に腰を下ろすと、彼女の目がぱっと輝いた。
「お! かわいいね!」
「うん。食べてみて」
沙菜はフィナンシェを手に取り、透明の包みを丁寧に開けて、半分をパクッと口に運ぶ。春の香りを味わうように、ゆっくりとそしゃくする。
「んー、おいしいっ! 春だぁ。春が待ち遠しいよ」
「おじさんとおばさんにも食べてもらって。後で袋に入れる」
「サンキュ。喜ぶよ」
沙菜の笑顔を見て、桜のフィナンシェは成功だと確信する。
彼女は率直な性格で、口に合わないものには遠慮なく意見を言う。だからこそ、その笑顔がなによりも信頼できる。
「ところで沙菜、私、ちょっと東京へ行ってくる」
「え? 東京に? おしゃれなパティスリーにでも偵察に行くの?」
「ううん。時間があったら行きたいけど。昨晩、父から電話があって、病院のパーティーに出てみないかって言われたの。二カ月後に東京であるんだって」
「パーティー? 東京でパーティーだなんて、なんだかすごそう。二カ月ずっと向こうにいるの?」
「土曜に出発して、日曜には戻ってくるよ。父が『一度こっちに来ないか?』って。とりあえず話を聞いてくるだけ。〝磨けば恥をかかない〟って言ってるの。磨くって、どういうことをするのかわからないんだけど」
沙菜は少しだけ真剣な表情で私の顔を見つめる。
「それ、言い方ひどくない? 自分の娘に。でもまあ……たしかに、今のままだと〝素朴すぎる〟のかもね」
「沙菜までそんなこと言う?」
「違う違う、悪い意味じゃなくて。桜都は素材がいいんだから、ちょっと手を加えたら絶対綺麗になるって。私、ずっとそう思ってたよ」
「……でも、私、そういうの苦手だし。メイクとか、服とか」
「うん、知ってる。でもちょっとくらい挑戦してみてもいいんじゃない? 別に誰かのためじゃなくて、自分のためにさ。いい機会だと思う」
「昨晩のお父さんの反応から、自分がいかにひどいのか身に染みたんだ。おばあちゃんの勧めもあったからとりあえず行ってくる。パーティーに出るのは気が進まないけどね」
「せっかくだから出てみたらいいのに。いつかきっかけをつくってくれた父親に感謝するかもしれないよ?」
父のことは嫌いじゃない。でも、医者として忙しく、遊んでもらった記憶はほとんどない。それに離婚は小学六年生の私にとって大きな衝撃だった。
とはいえ、こっちに来てからの生活費も専門学校の学費も支払ってくれている。だから、放っておかれているわけじゃないと思っている。
母も今は、新しい旦那様と幸せに暮らしている。だからこそ、父にも幸せになってほしい。
土曜日の朝、沙菜の運転で角館駅まで送ってもらい、秋田新幹線に乗って、一路東京駅へ向かった。
祖母の家から港区にある父の自宅までは五時間くらいだ。
父は離婚後、広い家はいらないという理由で実家の戸建てからほど近いマンションへと引っ越した。かつて私たちは、父の実家で祖父母と同居していた。祖母は私が幼稚園の頃に、祖父は小学校五年生のときに病気で亡くなっている。
秋田の祖母の家に住み始めてから、父のもとを訪れるのはこれが初めてだ。
スマホのアプリを頼りに、最寄り駅まではたどり着けるはず。
そう思いながらも、少し緊張していた。
車窓から流れる景色を眺めながら、胸の奥に小さな不安と期待が混ざり合うのを感じていた。
東京駅に到着し、乗り換えの地下鉄へ向かう途中、ふと立ち食いそばの店が目に入った。
すでに十三時を過ぎていて、朝からカフェオレしか口にしていない。漂ってくるそばの香りに、思わずおなかが鳴りそうになる。
カフェのようなおしゃれなお店には入りづらいけれど、ここなら……。
匂いに誘われるようにして、立ち食いそば店のドアを開けた。
入口にある食券機で、迷わずタヌキそばを選ぶ。食券をカウンターの中の女性に渡し、そばができるのを待ちながら、沙菜にメッセージを送った。
【無事、東京駅到着!】
ほどなくして、目の前にタヌキそばが置かれる。スマホで写真を撮り、沙菜に送信する。するとすぐに返信がくる。
【やだ! 東京なんだから、もっとおしゃれな食事しなよ!】
彼女らしいメッセージに笑う。
【だって、そんなところ怖くて入れない】
【もー、私もついていけばよかった】
一緒だったら楽しかっただろう。珍道中になったかもしれない。
【私もそう思った。じゃあ、またね】
スマホをポケットにしまい、湯気の立つタヌキそばに箸を伸ばす。素朴だけれど、ほっとする味だった。
地下鉄を乗り継いで麻布十番駅に着いたのは十四時近かった。最寄り駅に迎えに来てくれる父には途中で連絡し、到着時間をメッセージで送った。
「お父さんっ!」
思わず手を振りながら駆け寄ると、父は少し困ったような顔で首をかしげた。
「桜都、もう少し……」
父の表情が困惑気味で、首をかしげる。
「もう少し、なに?」
「いや……彼に頼めばいい……」
「彼? なにを頼むの?」
父の言葉の意味がわからなくて尋ねるが、「荷物はそれだけか?」と別の話になる。
私の荷物は専門学校時代に使っていたリュックサックに入っている。
「そうよ。一泊分だけだから」
「一泊だけ?」
父はギョッと目を見開く。
「そうじゃないの?」
「今のお前を見ていたら、無理って話だ。とりあえず家に行こう」
父は歩き始め、私は当惑しつつ後を追う。
一泊だけのつもりだったのに――なにが〝無理〟なんだろう。
父の後をついて歩きながら、周囲の景色に目を奪われる。
高層マンションが並び、ガラス張りのカフェやブティックが軒を連ねる街並み。見慣れない外国語の看板や、すれ違う人々の洗練された服装に、思わず足がすくみそうになる。
私が小学校卒業まで住んでいた町は、こんなに都会だったっけ?
幼い頃に歩いたはずの道なのに、記憶の中の風景とはまるで違って見える。
うっすらと覚えている公園の角や、母と手をつないで歩いた坂道が、今ではすっかり様変わりしていた。
「ついてきてるか?」
キョロキョロと辺りを見回しながら足を運ぶ私の数歩前を歩く父が振り返って、声をかける。
「うん、大丈夫」
そう答えながらも、心の中では少しだけ不安が膨らんでいた。
一泊で済まないのなら、数日滞在することになる。早く秋田へ帰って、サイトリニューアル作業に取りかかりたいのに……。
父の家は、駅から少し坂を上った先にある白いマンションだった。
五階建てで外壁は清潔感のある白で統一され、植え込みの緑も丁寧に手入れされている。
エントランスにはオートロックと宅配ボックスがあり、ガラス張りの扉の向こうには、静かなロビーが広がっていた。
エレベーターで三階に上がり、父が鍵を差し込んで開けた玄関へ促される。
「入りなさい」
靴を脱いで中に入ると、すぐにわかる。この部屋は、生活感が薄い。
2LDKの間取りで、リビングは広め。白とグレーを基調にしたシンプルなインテリア。
大きな窓からはやわらかな光が差し込み、壁際には薄型のテレビと、ガラスのローテーブル。ソファは深いネイビーで、座り心地がよさそうだ。
カウンター式のキッチンは料理をしている雰囲気はあまりないけれど、調理器具はひと通り揃っているようだ。
「荷物、そっちの部屋に置いていいぞ」
父の声に振り返ると、リビングの奥にある一室を指していた。
どうやら、そこが私の寝泊まりする部屋らしい。
「わかった」
リュックを下ろしながら、もう一度部屋を見渡す。
仕事が忙しいのだろう。以前住んでいた戸建ては祖父母もいたから生活感にあふれていたけれど、ここは寝るだけの家に思えた。
「お父さん、自炊はする?」
「いや……」
ふいに父がかわいそうになって胸が痛む。
「あ、私が作った焼き菓子を持ってきたの。お父さん、嫌いじゃなかったよね?」
「ああ。コーヒーくらいは入れられる。飲むか?」
「うん。手伝うよ」
キッチンに並んで立つのは、なんだか少し照れくさい。けれど、コーヒーメーカーから豆の香ばしい香りが漂ってきて、気持ちがふっと和らいだ。
コポコポとコーヒーが落ちるのを見てから、置いたリュックのところへ戻って袋包みを持ってくる。
中に入っているのは桜のフィナンシェと店で評判の抹茶マドレーヌだ。
丁寧に包んだ袋を差し出すと、父は少し驚いたように目を細めた。
「お前が作ったのか?」
「うん。話したよね? 専門学校を卒業して、ネットで販売してるんだよ」
「ん、ああ……そうだったな」
たっぷり落ちたコーヒーをふたつのカップに注いで、自分用には砂糖を加え、センターテーブルへ移動した。
「食べてみて」
父は包みを開け、桜のフィナンシェをひとつ手に取って口に運ぶ。しばらく無言のまま、ゆっくりとそしゃくしていた。
「……うまいな。甘さが控えめで、香りがいい」
「ほんと?」
「本当だ」
「抹茶マドレーヌは人気なの。この桜のフィナンシェはこれからお店に出すつもり」
「そうか……」
父はコーヒーをひと口飲んでから、抹茶マドレーヌを食べる。
「お父さん、私はここでなにをすればいいの?」
「パーティーに出てもおかしくないようにいろいろ学ぶんだ」
「いろいろ学ぶ……?」
それがどういうことなのか、まったくわからない。
「どうやって学べばいいの? パーティーに出てもおかしくないように学べる学校があるとか……?」
「まあ、そういう学校も海外にはあるな。それよりも最高の先生に頼んでいる」
「学校よりもすごい、最高の先生に?」
きっと品にあふれた淑女の先生だよね。そんな人から習うなんて私にできるのだろうか。
「ああ。月曜にパスポートを申請後、伏見さんのところへ連れていく。お前は泊まりがけで作法や身なりを整えるんだ」
「パスポート申請?」
「ああ。住民票を持ってきただろうな?」
電話の後、パーティーのために身分証明書が必要だから住民票を取って持ってくるようにとのメッセージはもらっていた。なにに使うかわからなかったが、とりあえず役所に出向いたのだ。
「え? う、うん。でもどうしてパスポートを?」
「伏見さんは忙しい方で、ほとんど日本にいない。たまたま帰国しているところをつかまえられたが、仕事で海外へ飛ぶ可能性もある。そのときにはお前も同行するかもしれない」
「そんな何日も、その伏見さんという人の家にいるの?」
「お前がどこに出しても恥ずかしくない淑女になるまでだ」
ということは、一日や二日で習得できるものではないと考える。そうなるとサイトのリニューアルは、今はできない……。
「お父さんは私が恥ずかしいのね?」
「パーティーに出てもらうにはだ。私にはがんばってくれとしか言えない。いい機会だと思ったから来てくれたんだろう?」
「……おばあちゃんにも勧められたから」
「はっきり言う。今のままでは一生結婚はできないぞ。お前みたいな女を男は避ける」
父の言葉には傷ついた。
「……結婚しなくていいし」
「君江さんがいつまでも長生きしてくれるのが願いだが、もうかなりの年だ。そうなればお前はひとりで寂しく、不便な田舎で生きていくんだぞ?」
いつかは祖母が私の前からいなくなってしまうことを考えると、胸がギュッと締めつけられる。
「君江さんだって、桜都に幸せな結婚をしてほしいと思っているはずだ」
「わかっているけど……お父さんが今の私を恥だと思っているんなら、パーティーには出ない方がいいと思う」
「言っただろう? パーティーには出てもらう。お前を恥だとは思わないが、もう少し身なりに気をつけた方がいいと思った。桜都、お前は磨けば誰よりも綺麗になる」
父は私を変えたいのだ。秋田にいれば別に周りの人からはなにも言われないから、まったく気にしなかった。
でも──おばあちゃんの言葉が、胸に突き刺さった。
『結婚しねくてもいいって、そりゃだめだべ! これから長ぇ人生だもの、ひとりで寂しく年取っていぐなんて、勧めらんねぇわ』
「……私がこの先で心配なのはおばあちゃん。おばあちゃんのためなら……びっくりするくらい変身してみよう……かな……」
「腰を抜かすくらい変身すると思うよ」
「それじゃ困る」
そう言葉にすると、父は「ハハハ、そうだな」と笑った。


