シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第十四話
薄暗い展示コーナーでライトアップされたクラゲの水槽を覗き込んでいると、バッグに入れていたスマホが短く鳴ったのに気付く。何気なく確認すると、峰岸先生からのショートメッセージが届いていた。
先生とは特に連絡先の交換をしていなかったが、園に緊急連絡先として私の携帯番号は提出しているし、向こうはそれで知っていたのだろう。ただ、それはあくまでも緊急時に使用する個人情報なのだけれど。
――大丈夫なのかな、あの先生……
着ぐるみショーの後から、私の中での峰岸先生への評価はガタ落ちしていた。風間さんからの追及には狼狽えるだけだったし。
今日の待ち合わせもあったから電話番号くらい直接聞かれたら答えたのに、園児の名簿を盗み見するみたいなことをしなくても……
密かに幻滅しながらも、私は「峰岸です」から始まるメッセージを開く。
『先程の男性は一体どういうことでしょうか? 綾斗君の父親って言ってたけど、俺は騙されてたってこと? ああ、つまりは児童扶養手当のためにシングルを装ってたってことですか?』
『このことは週明けに園長へ報告させていただきます』という文章で締めくくられたメッセージは私に対する怒りに満ちていた。
スマホを持つ指先が小刻みに震え出す。
母子家庭向けの手当てを給付してもらうためにパートナーと籍を入れずに事実婚のままにしておく家庭の話は、私も保育園の他の保護者との会話の中で噂程度に聞いたことはあった。
そして今、峰岸先生は私に対してその疑いをかけ、脅すようなメッセージを送りつけてきたのだ。
クラゲの水槽から漏れ出る青白い光に照らされながら、私は表情を強張らせる。事実無根もいいところだ。
これは優しい保育士だと思っていた担任から露呈した本性に、早い段階で気付くことができたと感謝すべきなのかもしれない。
「小春、どうした?」
綾斗を水槽の高さまで抱え上げていた恭平が、心配そうに眉を寄せて聞いてくる。私は彼にも相談しようと口を開きかけたが、すぐ考え直して黙り込む。これは子供の前で気軽に話していいことじゃない。
代わりに無言でスマホの画面を恭平の顔の前に掲げてみせた。
「……なるほど」
担任保育士から送られてきたメッセージに、恭平は怒るではなく逆に感心した声を出す。
「デート中に相手を搔っ攫われた反応としては、悪くないな」
「あ……」
言われて私もようやく気付く。あまりにも普通に水族館を楽しんでしまっていたからすっかり忘れていた。あの後、彼は一人でどうしたんだろうか、と。
実家が近いと言っていたし、そのまま帰ったのかなくらいにしか考えていなかったが、峰岸先生からしたら失礼極まりない話だ。馬鹿にされたとキレて当然かもしれない。
「でも、恭平が来てくれなかったら大問題に発展してたかもしれないのに」
「それでも男にはプライドがあるんだよ。そっとしておいてやろうかと思ったけど、そっか……」
そう言う恭平の顔が何だか嬉しそうで、私は少しばかり嫌な予感がした。けれど事実ではないとはいえ、あらぬ疑いをかけられて騒ぎにされるのは困る。
少し調べてもらえば簡単に分かることだけれど、担任保育士から嫌われてしまうと被害を受ける可能性が出てくるのは三歳の息子なのだ。やっぱり転園しなきゃならない運命なんだろうか。
心配して顔を青ざめさせる私に、恭平は穏やかな笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫。このことは俺に任せてもらえる? 小春と綾斗のことは、ちゃんと考えてるから」
自信満々な恭平にほぼ強引に頷き返させられると、私はゆらゆらと水の中で揺らめいているクラゲを眺めながらハァと溜め息を吐き出した。
初めての水族館を思う存分に楽しんだ綾斗は、恭平が運転する車に乗り込むと電池がいきなり切れたように眠り込んでしまった。
四年前に乗っていた車は渡米する際に処分したらしく、今の彼の車は燃費重視のハイブリッド車だ。車種はよく分からないけれど、広い車内にはエンジン音がほとんど聞こえなくて静かで、私は後部座席から掛ける言葉を探していた。
再会してから、二人だけでゆっくり話せる機会はほとんどなかった。いつも子供の前だと気を使いながら話していたけれど、いざとなると何を話題にしていいか分からなくなる。
恭平はいつも優しい言葉ばかり与えてくれるけれど、やっぱり私にはそれを素直に受け入れる勇気は出ない。彼は自分とは全く違うところで生きていく人で、私よりももっとふさわしい相手を見つけた方がいいのだから。
週明けの月曜日。まだ眠いとグズる息子をママチャリに乗せて、保育園へと続く道をゆっくりと走る。別に特別早く家を出たわけではなかったが、何となくあまり急ぎたい気分じゃなかった。
週末にあったことを考えたら、峰岸先生と顔を合わせるかと思うと気が重かった。
園舎に入ってすぐの職員室のガラス窓越しに、部屋の奥で園長先生と峰岸先生が向かい合って話している様子が見えた。今まさに私のことを告げ口しているのかもと思うと、息が詰まりそうになる。
職員室前で歩く速度を緩めた私を「どうしたの?」とでも言うように、綾斗が不思議そうに見上げてくる。
先生とは特に連絡先の交換をしていなかったが、園に緊急連絡先として私の携帯番号は提出しているし、向こうはそれで知っていたのだろう。ただ、それはあくまでも緊急時に使用する個人情報なのだけれど。
――大丈夫なのかな、あの先生……
着ぐるみショーの後から、私の中での峰岸先生への評価はガタ落ちしていた。風間さんからの追及には狼狽えるだけだったし。
今日の待ち合わせもあったから電話番号くらい直接聞かれたら答えたのに、園児の名簿を盗み見するみたいなことをしなくても……
密かに幻滅しながらも、私は「峰岸です」から始まるメッセージを開く。
『先程の男性は一体どういうことでしょうか? 綾斗君の父親って言ってたけど、俺は騙されてたってこと? ああ、つまりは児童扶養手当のためにシングルを装ってたってことですか?』
『このことは週明けに園長へ報告させていただきます』という文章で締めくくられたメッセージは私に対する怒りに満ちていた。
スマホを持つ指先が小刻みに震え出す。
母子家庭向けの手当てを給付してもらうためにパートナーと籍を入れずに事実婚のままにしておく家庭の話は、私も保育園の他の保護者との会話の中で噂程度に聞いたことはあった。
そして今、峰岸先生は私に対してその疑いをかけ、脅すようなメッセージを送りつけてきたのだ。
クラゲの水槽から漏れ出る青白い光に照らされながら、私は表情を強張らせる。事実無根もいいところだ。
これは優しい保育士だと思っていた担任から露呈した本性に、早い段階で気付くことができたと感謝すべきなのかもしれない。
「小春、どうした?」
綾斗を水槽の高さまで抱え上げていた恭平が、心配そうに眉を寄せて聞いてくる。私は彼にも相談しようと口を開きかけたが、すぐ考え直して黙り込む。これは子供の前で気軽に話していいことじゃない。
代わりに無言でスマホの画面を恭平の顔の前に掲げてみせた。
「……なるほど」
担任保育士から送られてきたメッセージに、恭平は怒るではなく逆に感心した声を出す。
「デート中に相手を搔っ攫われた反応としては、悪くないな」
「あ……」
言われて私もようやく気付く。あまりにも普通に水族館を楽しんでしまっていたからすっかり忘れていた。あの後、彼は一人でどうしたんだろうか、と。
実家が近いと言っていたし、そのまま帰ったのかなくらいにしか考えていなかったが、峰岸先生からしたら失礼極まりない話だ。馬鹿にされたとキレて当然かもしれない。
「でも、恭平が来てくれなかったら大問題に発展してたかもしれないのに」
「それでも男にはプライドがあるんだよ。そっとしておいてやろうかと思ったけど、そっか……」
そう言う恭平の顔が何だか嬉しそうで、私は少しばかり嫌な予感がした。けれど事実ではないとはいえ、あらぬ疑いをかけられて騒ぎにされるのは困る。
少し調べてもらえば簡単に分かることだけれど、担任保育士から嫌われてしまうと被害を受ける可能性が出てくるのは三歳の息子なのだ。やっぱり転園しなきゃならない運命なんだろうか。
心配して顔を青ざめさせる私に、恭平は穏やかな笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫。このことは俺に任せてもらえる? 小春と綾斗のことは、ちゃんと考えてるから」
自信満々な恭平にほぼ強引に頷き返させられると、私はゆらゆらと水の中で揺らめいているクラゲを眺めながらハァと溜め息を吐き出した。
初めての水族館を思う存分に楽しんだ綾斗は、恭平が運転する車に乗り込むと電池がいきなり切れたように眠り込んでしまった。
四年前に乗っていた車は渡米する際に処分したらしく、今の彼の車は燃費重視のハイブリッド車だ。車種はよく分からないけれど、広い車内にはエンジン音がほとんど聞こえなくて静かで、私は後部座席から掛ける言葉を探していた。
再会してから、二人だけでゆっくり話せる機会はほとんどなかった。いつも子供の前だと気を使いながら話していたけれど、いざとなると何を話題にしていいか分からなくなる。
恭平はいつも優しい言葉ばかり与えてくれるけれど、やっぱり私にはそれを素直に受け入れる勇気は出ない。彼は自分とは全く違うところで生きていく人で、私よりももっとふさわしい相手を見つけた方がいいのだから。
週明けの月曜日。まだ眠いとグズる息子をママチャリに乗せて、保育園へと続く道をゆっくりと走る。別に特別早く家を出たわけではなかったが、何となくあまり急ぎたい気分じゃなかった。
週末にあったことを考えたら、峰岸先生と顔を合わせるかと思うと気が重かった。
園舎に入ってすぐの職員室のガラス窓越しに、部屋の奥で園長先生と峰岸先生が向かい合って話している様子が見えた。今まさに私のことを告げ口しているのかもと思うと、息が詰まりそうになる。
職員室前で歩く速度を緩めた私を「どうしたの?」とでも言うように、綾斗が不思議そうに見上げてくる。