シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第十五話
私自身は何を言われても平気だけど、この子が嫌な思いをするのなら転園は考えておくべきかもしれない。――そう思って向かった年少の保育室前では、なぜか保護者達で人だかりが出来ていた。
「どうしたんですか?」
集まっている人の中に顔見知りの母親を見つけて、私は肩を叩いて訊ねる。同じクラスの親が中心だけれど、他の学年の人達も野次馬に混ざっている。何となく不穏な空気が保護者の間には漂っていた。
綾斗が仲良しなアツ君の母親が、入り口横の掲示板に貼り出されているA4サイズの用紙を指さしてみせた。
「コータ先生が辞めるみたいなんですよ。年少になったばかりのこんな中途半端な時期に、困りますよねぇ」
「え、でもさっき職員室におられましたよ、いつものエプロン姿で」
「そうなんですよー。さっき園長先生が来て、これを貼ってからコータ先生を連れていかれたんですよね。まさか何かやらかしちゃったんでしょうかねぇ?」
前の人の肩越しに掲示物を覗くと、先週付けでの峰岸先生の退職が通知されていた。退職の理由は記されていなかったけれど、本人は今朝もいつも通りに出勤してきているので一方的な解雇なのは誰の目にも明らかだった。
――まさかこれって、恭平が……?
元カレがどう手回ししたのかは分からないが、綾斗ではなく先生の方が保育園を追い出されることになったようだ。
何を理由に解雇に至ったのかは分からないけれどと思っていたが、降園時に保育室へ向かう途中で園長から廊下で呼び止められた。元保育士だという女性の園長先生は年少クラスの保護者に対し、急な担任の退職について謝罪して回っているみたいだった。
「この度は急な人事変更に、ご迷惑をお掛けしてしまいました。子供達については必要があれば個別のカウンセリングも考えておりますので……」
急な担任変更で心に不安を抱えてしまう子供達も出てくるかもしれない。副担任だった樋口先生を中心に、しっかりと見守っていきますという言葉へ、私は「よろしくお願いします」とだけ返して頭を下げる。
何か大事の雰囲気を醸し出していた峰岸先生の退職で、保護者の中にはいろいろな憶測が飛び交っていた。
「峰岸先生ってほら、去年の卒園児の親と付き合ってるって噂があったじゃない」
「えーっ、でもあれは卒園した後だからセーフなんじゃないの? あ、もしかして、在園中からだったとか?」
「私が聞いたところでは、園児名簿をスマホのカメラで撮影してるのが防犯カメラに映ってたって」
最後に聞こえて来た噂話には何だか身に覚えがある気がして、ぞくっと背筋が冷える。私の番号もそうやって入手したのかと思うと、あまりに手慣れていて呆れてしまう。
私の知らない噂も沢山あったみたいで、峰岸先生は元からいつ解雇されてもおかしくない状態だったのかもしれない。なのにどうして担任をとも思ったが、負担の多い担任は他の保育士達があまりやりたがらないのが原因だという声もあった。実際のところはどうかは分からないけれど。
保育園から帰って来ても、隣の部屋からは物音一つせずにとても静かだった。今日は朝のかなり早い時間に出ていく音が聞こえていたから、さすがに恭平も忙しいのだろう。帰国してすぐに代表職に就いたらしく、毎日仕事が山積みだと苦笑いしながら言っていたことを思い出す。
隣から誰の生活音も聞こえないのなんか、ずっと空き家だったから当たり前だったはずなのに、どうしてこんなに気になってしまうのだろう。
「恭平、お留守みたいだね」
同じことを考えていたのか、綾斗が読んでいた絵本から顔を上げて、隣とを隔てる壁を見ながら言う。
「またペンギン、見に行きたいね。赤ちゃん、可愛かったから」
「そうだね」
綾斗の隣には水族館で買って貰ったペンギンのぬいぐるみが置かれている。今はその子にお気に入りの絵本を見せてあげているんだそうだ。ペンペンと名付けられたそのぬいぐるみは、綾斗の妹なのだという。私はペンギンを産んだ覚えはなかったけれど。
その日の夜、恭平が帰宅した気配がしたのは綾斗が眠った後だった。私は少し考えて、冷蔵庫から総菜が入った保存容器を取り出し、レンジで温め直す。そして、それを持って廊下を出て、隣の部屋の前で玄関チャイムを押した。間髪入れずにドアが開いたのは私が外へ出る音に彼も気付いたからなのだろう。恭平は意外だというように目を丸くしながらも、嬉しそうに歯を見せて笑う。
「こんな遅くに、どうした?」
「これ、今日の夕食の残りなんだけど……ご飯まだだったらって思って。あ、もう食べたんなら明日の朝ご飯にでもして。八宝菜だからご飯に乗っけて中華丼にしてもいいし」
一気に言ってから、ほぼ無理矢理に保存容器を恭平の胸へと押し付ける。綾斗に合わせて薄味かもしれないが、奮発してシーフードミックスを入れたから晩酌の肴にもなるはずだ。
恭平は蓋を少し開けて中身を確かめた後、さらに頬を上げて笑顔になる。
「美味しそうだね。今日は昼からまともに食べてなかったから、ありがたく頂くよ」
「そう、良かった」
「で、どうしたんだ?」
「今日、園に行ったら峰岸先生が昨日付けで退職になったって……あれって恭平のおかげ、だよね?」
「ああ、うちの弁護士にちょっと園に話してもらっただけだけどね。保護者から『保育士から個人的に連絡が来たけれど、緊急時でもないのに個人情報を閲覧できる状況なのか?』って相談を受けたって。あいつ、きっと他にも余罪はありそうだから、小春のことだとは特定されないと思うよ」
防犯カメラの噂はどうやら当たっているらしい。彼が直接乗り込んだとかではなかったことに、私はホッとして頬を緩めた。彼のおかげで、まだあの保育園に通い続けることができそうだ。
「どうしたんですか?」
集まっている人の中に顔見知りの母親を見つけて、私は肩を叩いて訊ねる。同じクラスの親が中心だけれど、他の学年の人達も野次馬に混ざっている。何となく不穏な空気が保護者の間には漂っていた。
綾斗が仲良しなアツ君の母親が、入り口横の掲示板に貼り出されているA4サイズの用紙を指さしてみせた。
「コータ先生が辞めるみたいなんですよ。年少になったばかりのこんな中途半端な時期に、困りますよねぇ」
「え、でもさっき職員室におられましたよ、いつものエプロン姿で」
「そうなんですよー。さっき園長先生が来て、これを貼ってからコータ先生を連れていかれたんですよね。まさか何かやらかしちゃったんでしょうかねぇ?」
前の人の肩越しに掲示物を覗くと、先週付けでの峰岸先生の退職が通知されていた。退職の理由は記されていなかったけれど、本人は今朝もいつも通りに出勤してきているので一方的な解雇なのは誰の目にも明らかだった。
――まさかこれって、恭平が……?
元カレがどう手回ししたのかは分からないが、綾斗ではなく先生の方が保育園を追い出されることになったようだ。
何を理由に解雇に至ったのかは分からないけれどと思っていたが、降園時に保育室へ向かう途中で園長から廊下で呼び止められた。元保育士だという女性の園長先生は年少クラスの保護者に対し、急な担任の退職について謝罪して回っているみたいだった。
「この度は急な人事変更に、ご迷惑をお掛けしてしまいました。子供達については必要があれば個別のカウンセリングも考えておりますので……」
急な担任変更で心に不安を抱えてしまう子供達も出てくるかもしれない。副担任だった樋口先生を中心に、しっかりと見守っていきますという言葉へ、私は「よろしくお願いします」とだけ返して頭を下げる。
何か大事の雰囲気を醸し出していた峰岸先生の退職で、保護者の中にはいろいろな憶測が飛び交っていた。
「峰岸先生ってほら、去年の卒園児の親と付き合ってるって噂があったじゃない」
「えーっ、でもあれは卒園した後だからセーフなんじゃないの? あ、もしかして、在園中からだったとか?」
「私が聞いたところでは、園児名簿をスマホのカメラで撮影してるのが防犯カメラに映ってたって」
最後に聞こえて来た噂話には何だか身に覚えがある気がして、ぞくっと背筋が冷える。私の番号もそうやって入手したのかと思うと、あまりに手慣れていて呆れてしまう。
私の知らない噂も沢山あったみたいで、峰岸先生は元からいつ解雇されてもおかしくない状態だったのかもしれない。なのにどうして担任をとも思ったが、負担の多い担任は他の保育士達があまりやりたがらないのが原因だという声もあった。実際のところはどうかは分からないけれど。
保育園から帰って来ても、隣の部屋からは物音一つせずにとても静かだった。今日は朝のかなり早い時間に出ていく音が聞こえていたから、さすがに恭平も忙しいのだろう。帰国してすぐに代表職に就いたらしく、毎日仕事が山積みだと苦笑いしながら言っていたことを思い出す。
隣から誰の生活音も聞こえないのなんか、ずっと空き家だったから当たり前だったはずなのに、どうしてこんなに気になってしまうのだろう。
「恭平、お留守みたいだね」
同じことを考えていたのか、綾斗が読んでいた絵本から顔を上げて、隣とを隔てる壁を見ながら言う。
「またペンギン、見に行きたいね。赤ちゃん、可愛かったから」
「そうだね」
綾斗の隣には水族館で買って貰ったペンギンのぬいぐるみが置かれている。今はその子にお気に入りの絵本を見せてあげているんだそうだ。ペンペンと名付けられたそのぬいぐるみは、綾斗の妹なのだという。私はペンギンを産んだ覚えはなかったけれど。
その日の夜、恭平が帰宅した気配がしたのは綾斗が眠った後だった。私は少し考えて、冷蔵庫から総菜が入った保存容器を取り出し、レンジで温め直す。そして、それを持って廊下を出て、隣の部屋の前で玄関チャイムを押した。間髪入れずにドアが開いたのは私が外へ出る音に彼も気付いたからなのだろう。恭平は意外だというように目を丸くしながらも、嬉しそうに歯を見せて笑う。
「こんな遅くに、どうした?」
「これ、今日の夕食の残りなんだけど……ご飯まだだったらって思って。あ、もう食べたんなら明日の朝ご飯にでもして。八宝菜だからご飯に乗っけて中華丼にしてもいいし」
一気に言ってから、ほぼ無理矢理に保存容器を恭平の胸へと押し付ける。綾斗に合わせて薄味かもしれないが、奮発してシーフードミックスを入れたから晩酌の肴にもなるはずだ。
恭平は蓋を少し開けて中身を確かめた後、さらに頬を上げて笑顔になる。
「美味しそうだね。今日は昼からまともに食べてなかったから、ありがたく頂くよ」
「そう、良かった」
「で、どうしたんだ?」
「今日、園に行ったら峰岸先生が昨日付けで退職になったって……あれって恭平のおかげ、だよね?」
「ああ、うちの弁護士にちょっと園に話してもらっただけだけどね。保護者から『保育士から個人的に連絡が来たけれど、緊急時でもないのに個人情報を閲覧できる状況なのか?』って相談を受けたって。あいつ、きっと他にも余罪はありそうだから、小春のことだとは特定されないと思うよ」
防犯カメラの噂はどうやら当たっているらしい。彼が直接乗り込んだとかではなかったことに、私はホッとして頬を緩めた。彼のおかげで、まだあの保育園に通い続けることができそうだ。