シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第十六話
急な担任保育士交代のバタバタがようやく落ち着いてきたくらいだろうか、年少になってからずっと皆勤賞だった綾斗が夜中に小さくうなされているのに気付く。普段は寝言もなく静かに眠る息子のその異変に、私は布団から起き上がって綾斗の額へと手を伸ばした。
体温計を使うまでもなく、かなり熱が高いことを手の平で感じ取る。時折、顔を左右に振ってその辛さを訴えている子供の顔は熱のせいでかなり赤い。
ふぅっという、諦めに似た溜め息が知らずに私の口から漏れ出る。この状態になっていてはもうどうしようもない。
枕の横に置いていたスマホを手に取って時刻を確かめると、五時を少し過ぎたところだ。日が明ける少し前で、カーテンの向こうはまだ暗いまま。
私は電気を点けずに部屋の隅にある収納棚の一番上の引き出しを開け、熱冷まし用のシートを取り出して息子の額へそっと乗せる。普段ならシートが貼り付けられる違和感に速攻で剥がされてしまうけれど、今はそんな抵抗する元気もないみたいで、一度小さく唸っただけだった。
保育園に入れてすぐもよく熱を出すことがあった。免疫力のない乳幼児は簡単にいろんな病気を発症し、月の半分が欠席シールで埋め尽くされていた。でもあの頃は祖母もまだ元気で、私が仕事に出ている間の看病を代わりに頼むことができた。
それがどんなにありがたいことだったかは、一年前に祖母が倒れて入退院を繰り返すようになるまで気付いていなかったかもしれない。
――綾斗、一度熱を出すと何日も続いちゃうからなぁ……
インフルエンザとかじゃなく普通の風邪でも、発熱が数日間も長引くことは珍しくない。子供に処方される薬が大人ほど強いものでないというのもあるのだろう。それに、朝起きた時は元気だと思ったら夕方からまたぶり返すことも多いし厄介だ。熱の上がり方も大人とは違う。
かと言って、病児保育を受け入れてくれる施設が家の近くにはない。祖母がいない今は、仕事を休んで看病するしか選択肢がなかった。
勤務開始の一時間前になるのを待って、私は社長への電話で欠勤の連絡をする。
繁忙期ではなかったしベテラン事務員の柿崎さんもいるからと、今日のところは快く許可はもらえたけれど、よく考えたら今年の有給分はすでにあと一日しか残っていない。
祖母がお世話になっている施設からの呼び出しと、息子の体調不良とであっという間に消化してしまっている。有給休暇を自分のために使うなんて、きっと異世界の話だと思わずにいられない。
小児科の午前診療を受診してからひと眠りした後、まだ熱は高いままなのに綾斗は普段通りに遊び始める。
その体調でどうしてと不思議だが、子供は熱があってもやたらと元気なことが多い。そうかと思うと、一瞬で電池切れを起こしてしまうのだけれど。
登園時間が過ぎても我が家から物音が聞こえていたから心配させてしまったのだろうか、夜に帰宅した恭平が訪ねてくる。薄い壁は隣近所の生活音が筒抜けだ。
「大丈夫、ただの風邪だから」
「そっか、良かった。小春は平気? 何か必要な物があれば、代わりに買ってくるけど」
「ありがとう。でも、小児科の帰りに買い物には行ったから」
玄関から聞こえる声に気付いた綾斗がパジャマのまま奥から顔を出すと、額に貼られたシートと熱で赤くなった頬を見て、恭平が少し焦った声になる。
普段の元気が有り余っている息子の姿しか見たことがなかったから、不安が隠し切れないのだろうか。
「仕事の調整はいくらでもできるから、何かあったら遠慮なく言って。車もいつでも出せるし」
誰よりも忙しいはずの恭平の言葉には、私は半ば社交辞令のつもりで「ありがとう、頼りにしてるね」とお礼を言って返す。
端から頼る気はなかったけれど、困った時に手を差し伸べようとしてくれている人がいること自体は決して悪い気はしない。でもきっと、私は何があっても彼を頼ろうとはしないはずだ。だって、妊娠が分かって彼の元を去ることを決めた時、一人で頑張ることにしたのは私自身なのだから。
そう思っていたのに、私は翌朝の早い時間に、恭平の部屋の玄関チャイムを神妙な面持ちをしながら押していた。
「大槻さんが大変なのはよく分かってるんだよ。でもね、こう続けて欠勤されてしまうと他の従業員の手前もあるし。ほら、うちって時給で入ってる人が多いから――」
今の職場は店も事務所もパートや契約社員が中心で、正社員として月給制で雇用されている人は少ない。宅建なんかの資格も持っていないのに固定給で勤務している私のことを厳しい目で見てくる人もいる。
二日続けて欠勤の連絡をした私に対し、社長が電話の向こうで渋い顔をしながら後ろ頭を掻いている姿が目に浮かんだ。
かと言って、契約社員やパートへ降格してしまうと、これから嵩んでいく子供の養育費に不安が出てくる。それだけは何とか避けたいと、私は社長へと勢い余って啖呵を切ってしまった。
「やっぱり大丈夫です、出勤します!」
通話を終えるとスマホで病児保育室を検索し、無理すれば何とか連れて行けそうな小児科併設のところに予約の連絡を入れようとしたが、事前登録制だと言われてあっさり玉砕。他はさらに遠くて体調の悪い子供を連れて行くのは無理そうだった。
だから最後の手段だと、私は隣の部屋の玄関前に立ち尽くしていた。
体温計を使うまでもなく、かなり熱が高いことを手の平で感じ取る。時折、顔を左右に振ってその辛さを訴えている子供の顔は熱のせいでかなり赤い。
ふぅっという、諦めに似た溜め息が知らずに私の口から漏れ出る。この状態になっていてはもうどうしようもない。
枕の横に置いていたスマホを手に取って時刻を確かめると、五時を少し過ぎたところだ。日が明ける少し前で、カーテンの向こうはまだ暗いまま。
私は電気を点けずに部屋の隅にある収納棚の一番上の引き出しを開け、熱冷まし用のシートを取り出して息子の額へそっと乗せる。普段ならシートが貼り付けられる違和感に速攻で剥がされてしまうけれど、今はそんな抵抗する元気もないみたいで、一度小さく唸っただけだった。
保育園に入れてすぐもよく熱を出すことがあった。免疫力のない乳幼児は簡単にいろんな病気を発症し、月の半分が欠席シールで埋め尽くされていた。でもあの頃は祖母もまだ元気で、私が仕事に出ている間の看病を代わりに頼むことができた。
それがどんなにありがたいことだったかは、一年前に祖母が倒れて入退院を繰り返すようになるまで気付いていなかったかもしれない。
――綾斗、一度熱を出すと何日も続いちゃうからなぁ……
インフルエンザとかじゃなく普通の風邪でも、発熱が数日間も長引くことは珍しくない。子供に処方される薬が大人ほど強いものでないというのもあるのだろう。それに、朝起きた時は元気だと思ったら夕方からまたぶり返すことも多いし厄介だ。熱の上がり方も大人とは違う。
かと言って、病児保育を受け入れてくれる施設が家の近くにはない。祖母がいない今は、仕事を休んで看病するしか選択肢がなかった。
勤務開始の一時間前になるのを待って、私は社長への電話で欠勤の連絡をする。
繁忙期ではなかったしベテラン事務員の柿崎さんもいるからと、今日のところは快く許可はもらえたけれど、よく考えたら今年の有給分はすでにあと一日しか残っていない。
祖母がお世話になっている施設からの呼び出しと、息子の体調不良とであっという間に消化してしまっている。有給休暇を自分のために使うなんて、きっと異世界の話だと思わずにいられない。
小児科の午前診療を受診してからひと眠りした後、まだ熱は高いままなのに綾斗は普段通りに遊び始める。
その体調でどうしてと不思議だが、子供は熱があってもやたらと元気なことが多い。そうかと思うと、一瞬で電池切れを起こしてしまうのだけれど。
登園時間が過ぎても我が家から物音が聞こえていたから心配させてしまったのだろうか、夜に帰宅した恭平が訪ねてくる。薄い壁は隣近所の生活音が筒抜けだ。
「大丈夫、ただの風邪だから」
「そっか、良かった。小春は平気? 何か必要な物があれば、代わりに買ってくるけど」
「ありがとう。でも、小児科の帰りに買い物には行ったから」
玄関から聞こえる声に気付いた綾斗がパジャマのまま奥から顔を出すと、額に貼られたシートと熱で赤くなった頬を見て、恭平が少し焦った声になる。
普段の元気が有り余っている息子の姿しか見たことがなかったから、不安が隠し切れないのだろうか。
「仕事の調整はいくらでもできるから、何かあったら遠慮なく言って。車もいつでも出せるし」
誰よりも忙しいはずの恭平の言葉には、私は半ば社交辞令のつもりで「ありがとう、頼りにしてるね」とお礼を言って返す。
端から頼る気はなかったけれど、困った時に手を差し伸べようとしてくれている人がいること自体は決して悪い気はしない。でもきっと、私は何があっても彼を頼ろうとはしないはずだ。だって、妊娠が分かって彼の元を去ることを決めた時、一人で頑張ることにしたのは私自身なのだから。
そう思っていたのに、私は翌朝の早い時間に、恭平の部屋の玄関チャイムを神妙な面持ちをしながら押していた。
「大槻さんが大変なのはよく分かってるんだよ。でもね、こう続けて欠勤されてしまうと他の従業員の手前もあるし。ほら、うちって時給で入ってる人が多いから――」
今の職場は店も事務所もパートや契約社員が中心で、正社員として月給制で雇用されている人は少ない。宅建なんかの資格も持っていないのに固定給で勤務している私のことを厳しい目で見てくる人もいる。
二日続けて欠勤の連絡をした私に対し、社長が電話の向こうで渋い顔をしながら後ろ頭を掻いている姿が目に浮かんだ。
かと言って、契約社員やパートへ降格してしまうと、これから嵩んでいく子供の養育費に不安が出てくる。それだけは何とか避けたいと、私は社長へと勢い余って啖呵を切ってしまった。
「やっぱり大丈夫です、出勤します!」
通話を終えるとスマホで病児保育室を検索し、無理すれば何とか連れて行けそうな小児科併設のところに予約の連絡を入れようとしたが、事前登録制だと言われてあっさり玉砕。他はさらに遠くて体調の悪い子供を連れて行くのは無理そうだった。
だから最後の手段だと、私は隣の部屋の玄関前に立ち尽くしていた。