シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです

第十七話

 朝から私が部屋を訪ねることなんて一度もなかったから、恭平は綾斗に何かあったのかと血相を変えて勢いよく玄関ドアを開いた。
 着替え途中だったのか、ネクタイを首に垂れ下げたまま結びもせずに。

「ど、どうした? 綾斗の調子が悪くなったとか? すぐに車、出そうか?」
「ううん、病院で貰った薬のおかげで、熱は随分下がったみたいなんだけど……」

 そこまで言ってから、私は言いかけようとしていた言葉を飲み込む。四年前に彼の前から黙って逃げ出し、恭平のことを傷付けたのは私なのに、困っているからと都合よく頼ろうとするなんて勝手すぎると気付いた。
 私が早朝から押しかけてきたくせに黙り込んでしまったことに、恭平は首に掛けていたネクタイを片手で外しながら「分かった」とでも言うように静かに頷く。勘の良い彼は私が訪ねてきた理由を察したみたいだった。

「今日は何件か打ち合わせはあるけど別に急ぎではないし、何ならリモートでもできる。もう起きてるんだったら、いつでも連れてきてくれていいよ」
「で、でも……」

 狭いアパートの間取りは玄関から丸見えだ。恭平が和室に置いているローテーブルでノートパソコンを開いて仕事をしている途中だったのが分かった。着替えながらもこなさなければならないほど忙しいはずなのに、熱を出している子供の看病を頼むなんて申し訳なくなってくる。

 俯いて他に方法はないか考えようとする私の頭に、恭平の大きな手がポンと乗せられる。撫でるでもなく、ただ乗せられただけの手は少し重くて、意地を張らなくていいと言ってもらっている気がした。私はそのまま上目遣いで彼のことを見上げる。恭平は呆れ笑いを浮かべながら言った。

「俺だって綾斗の親なんだよ。あの子が辛い時に傍にいてやる義務があるのは小春と一緒だ」
「恭平……」

 彼が私のことを見下ろす目がとても優しくて、これまでは出来る限り人に頼ることを避けていた私の心を見透かされているようだった。
 彼が綾斗と顔を合わせてから、まだひと月くらいしか経っていない。急に現れた三歳児のことをここまで大事に考えてくれる人なんているんだろうか。
 彼のエリート人生において、私と息子の存在は足手まといにしかならないと思っていたのに。

「何かあったらすぐ連絡するから、安心して」

 恭平のその温かい言葉を信じ、私は着替えなどの必要品を詰め込んだバッグと一緒に綾斗を隣の部屋に送り届ける。
 恭平に抱っこされたまま廊下から見送ってくれる息子は、少し不安そうな目をしていた。さすがに人見知りはしなくなったと言っても、やっぱり体調の悪い時に違う家に預けられるのは平気ではないのだろう。
 私は後ろ髪を引かれながらも、ママチャリを漕いで職場のある駅前へと向かう。

「昨日はすみませんでした」

 前日の急な欠勤を謝罪した時、パートの柿崎さんが声を潜めて私にだけ聞こえるように教えてくれる。
 社長は私が出勤した後、野瀬さんを伴って物件調査に出て行ってしまった。相変わらず忙しい上司だ。

「私はいいのよー。子供が熱出すのなんて、当たり前のことなんだし。でも、ショップの飯塚さんが何だかんだ文句言ってくるみたいで、社長も困ってたわ」
「え、何をですか?」

 一階にある賃貸専門の店舗で勤務する飯塚さんは勤務歴二年目の契約社員だ。私と同じ歳の二十七歳で、入社してしばらくは仲良くしていた時期もあったけれど、最近は顔を合わせても必要最低限の挨拶を交わすくらい。
 急に関係がギクシャクし出した原因はさっぱり思いつかないけれど、向こうから一方的に嫌われているのは気付いていた。

「あの子、ずっと正社員になりたがってるのに、社長がいつまでも首を縦に振らないから。大槻さんは最初から正社員でしょう、面白くないみたいよ」
「ええーっ」

 そう言われてみれば、飯塚さんとあまり話さなくなったのは、彼女が入社してから最初の賞与の後辺りだ。別に互いの金額について教え合ったりはしてないけれど、雇用形態での賞与に差があることを周りの誰かから聞いたのかもしれない。

「でもショップは契約数に応じた実績給もあるのに……」

 事務職の私にはそういったものはない。逆に店舗勤務が羨ましいとさえ思っていたくらいだ。月によっては正社員を大きく上回ることだってあるのだから。

「そっか、今度から気をつけますね。そんな風に思われてるって気付いてなかったので」
「言いたい人には言わせておけばいいんだけどね。子供に手がかかるのなんて今だけなんだし」

 母親としての先輩の余裕のある言葉に、私は小さく声を出して笑う。柿崎さんのこの達観した性格には助けられることがとても多い。

「それで、今日は綾斗君はどうしたの? 病児保育が見つかった? 昨日の今日だから、熱はまだ下がりそうもないんでしょう?」
「病児は事前登録が必要って断られてしまって、今日は知り合いのところに――」
「へー、体調悪い時に預かってくれる知り合いなんていたんだね、親戚とか?」

 祖母がいなくなった後はずっと一人でやってきたのを知っているから、柿崎さんが意外だという表情になる。そんな人がいたのならこれまでどうして、と疑問に思ったのだろうか。
 私は言い訳するよう、慌てて言葉を付け加える。

「た、たまたま、少し前に知り合いが近くに引っ越して来たんです」
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