シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第十九話
「あっ、一人でお外に出たらダメよ!」
「だったらママ、早くしてよー」
すっかり元気になった綾斗が先に玄関を飛び出そうとするのを注意しながら、私は息子の通園リュックと自分のトートバッグを抱えて後を追いかける。
昨日までの体調不良が嘘のように、久しぶりの保育園が嬉しくて仕方ない綾斗は玄関前で飛び跳ねていた。今日は起きた瞬間から、園で何の玩具で誰と遊ぶかの計画を一生懸命お喋りし続けている。
ちゃんと鍵が閉まったかをノブを回して再確認していると、隣の部屋の玄関がガチャリと開く音が耳に届く。
「おはよう。綾斗、もう保育園に行っても平気なのか?」
スーツ姿の恭平もちょうど出勤のタイミングだったのか、ビジネスバッグを片手に玄関の鍵を閉めながら息子へと声を掛けてくる。嬉しそうに駆け寄っていく綾斗の元気な様子にホッとしたように頬を緩めて、小さな頭を手の平でクシャっと撫でる。
「うん、風邪はもう治った! 恭平もお仕事に行くの?」
「ああ」
以前よりもさらに距離の縮まった風に見える二人を追って、私も階段を駆け下りる。一日中ずっと一緒にいてもらったことで、綾斗は前よりも恭平のことを身近な大人として認識するようになったのだろう。
後ろから遅れてくる私のことを階段の下で待っていてくれた恭平達。私は改めて昨日のお礼を伝えようと彼の顔を見上げてから、少し照れくさくなる。直接顔を見てしまうと昨夜のことを一気に思い出してしまった。
「恭平、もしかして今日は帰ってくるの遅い?」
「いや、いつも通りだけど」
「どうして?」と不思議そうな表情になる恭平へ、私は少しばかり目を反らしながら口を開く。面と向かって言うのは少し勇気が必要だった。
「昨日のお礼に夕飯を一緒にどうかな、って……」
先に駐輪場に向かって駆け出した綾斗のことを二人並んで目で追う。早く保育園に行きたくて仕方ないのか、綾斗は自分でママチャリのカゴからヘルメットを引っ張り出して頭に被ろうとしていた。
「お礼なんて別に……」
「あ、でも、特別なものは何も作れないし、普段通りのご飯だけどね。綾斗に合わせると何でも薄味になっちゃうし」
「いや、それでも、嬉しいな」
鼻の頭を指先で触れながら恭平は言葉通り嬉しそうに顔を綻ばせた。
私は綾斗に急かされて駐輪場へと駆け出しつつ、恭平の方を振り返りながら「じゃあ、夕飯で」と笑ってみせる。それに対して彼が大きく頷き返してくれたのを確認した後、とても久しぶりに胸が高鳴っていくのを感じていた。
どんなに住む世界が違い、一緒にいれば負担になると分かっていても、彼に惹かれてしまう心は誤魔化せない。きっとまた離れることになる日がくるのだとしても、それでも今だけはと願ってしまう。
自分がこんなに強欲なことを考える女だとは思ってもみなかった。守るべき存在があるのに、自分も守られたいと考えてしまうのだから。誰かに頼れる心地良さは自分が強がっていただけなのを思い起こさせてしまった。
先にアパートの敷地を歩いて出ていく恭平へ向かい、自転車のチャイルドシートの上から綾斗が元気いっぱいに手を振りながら呼び掛ける。
「パパ、いってらっしゃーい」
呼ばれた恭平だけでなく、私も驚いて息子の顔を見る。恭平も目を丸く見開いたまま門の前で立ち止まっていた。まさかパパと呼ばれるなんて思ってもみなかったのだろう。
何度もパパだと告げても、これまで一度も息子がそう呼んでくれることはなかったのだから。
けれど、綾斗は得意げに鼻を膨らませて言った。
「だって、恭平は綾斗のパパなんでしょ」
ブンブンと手を振る息子に対し、恭平は破顔しながら手を振り返し「行ってきます」と答えてから駐車場のある方角へ歩いていった。
彼の後ろ姿がとても浮足立っているように見えて、私は小さく吹き出しつつもなぜか目に涙を溜める。胸の奥が一気に温かくなっていた。
夕方、恭平をもてなすための少し豪華な夕飯の支度をしながら、私は廊下から聞こえてくる足音に耳を澄ませていた。ボロアパートは階段を上がるだけでも音が響いてしまうから、深夜の出入りにはかなり気を付けなければいけない。
遠くからカツカツという革靴で階段を上がってくる音が聞こえてきたかと思うと、すぐに部屋の前の廊下で足音が止む。おそらく恭平が玄関チャイムを押そうと手を伸ばしたタイミングで、待ち構えていた綾斗が中からドアを勢いよく開く。
「パパ!」
玄関に置いていた私のパンプスを履いて出て行き、転びそうになった綾斗の身体を恭平は慌てて片手で受け止めていた。三歳児の行動はほぼ勢いで、予想外の動きも多いからハラハラする。
「危ないからママの靴を勝手に履いたらダメだろ」
「えーっ、いつも履いてるから大丈夫だよー」
「いや、全然大丈夫じゃなかったし……」
来て早々のお小言もあっさりと言い返されて、恭平は苦笑いを浮かべている。私はそんな二人の言い合いがおかしくて、鍋に入ったシチューを温め直しながら声を出して笑った。
「だったらママ、早くしてよー」
すっかり元気になった綾斗が先に玄関を飛び出そうとするのを注意しながら、私は息子の通園リュックと自分のトートバッグを抱えて後を追いかける。
昨日までの体調不良が嘘のように、久しぶりの保育園が嬉しくて仕方ない綾斗は玄関前で飛び跳ねていた。今日は起きた瞬間から、園で何の玩具で誰と遊ぶかの計画を一生懸命お喋りし続けている。
ちゃんと鍵が閉まったかをノブを回して再確認していると、隣の部屋の玄関がガチャリと開く音が耳に届く。
「おはよう。綾斗、もう保育園に行っても平気なのか?」
スーツ姿の恭平もちょうど出勤のタイミングだったのか、ビジネスバッグを片手に玄関の鍵を閉めながら息子へと声を掛けてくる。嬉しそうに駆け寄っていく綾斗の元気な様子にホッとしたように頬を緩めて、小さな頭を手の平でクシャっと撫でる。
「うん、風邪はもう治った! 恭平もお仕事に行くの?」
「ああ」
以前よりもさらに距離の縮まった風に見える二人を追って、私も階段を駆け下りる。一日中ずっと一緒にいてもらったことで、綾斗は前よりも恭平のことを身近な大人として認識するようになったのだろう。
後ろから遅れてくる私のことを階段の下で待っていてくれた恭平達。私は改めて昨日のお礼を伝えようと彼の顔を見上げてから、少し照れくさくなる。直接顔を見てしまうと昨夜のことを一気に思い出してしまった。
「恭平、もしかして今日は帰ってくるの遅い?」
「いや、いつも通りだけど」
「どうして?」と不思議そうな表情になる恭平へ、私は少しばかり目を反らしながら口を開く。面と向かって言うのは少し勇気が必要だった。
「昨日のお礼に夕飯を一緒にどうかな、って……」
先に駐輪場に向かって駆け出した綾斗のことを二人並んで目で追う。早く保育園に行きたくて仕方ないのか、綾斗は自分でママチャリのカゴからヘルメットを引っ張り出して頭に被ろうとしていた。
「お礼なんて別に……」
「あ、でも、特別なものは何も作れないし、普段通りのご飯だけどね。綾斗に合わせると何でも薄味になっちゃうし」
「いや、それでも、嬉しいな」
鼻の頭を指先で触れながら恭平は言葉通り嬉しそうに顔を綻ばせた。
私は綾斗に急かされて駐輪場へと駆け出しつつ、恭平の方を振り返りながら「じゃあ、夕飯で」と笑ってみせる。それに対して彼が大きく頷き返してくれたのを確認した後、とても久しぶりに胸が高鳴っていくのを感じていた。
どんなに住む世界が違い、一緒にいれば負担になると分かっていても、彼に惹かれてしまう心は誤魔化せない。きっとまた離れることになる日がくるのだとしても、それでも今だけはと願ってしまう。
自分がこんなに強欲なことを考える女だとは思ってもみなかった。守るべき存在があるのに、自分も守られたいと考えてしまうのだから。誰かに頼れる心地良さは自分が強がっていただけなのを思い起こさせてしまった。
先にアパートの敷地を歩いて出ていく恭平へ向かい、自転車のチャイルドシートの上から綾斗が元気いっぱいに手を振りながら呼び掛ける。
「パパ、いってらっしゃーい」
呼ばれた恭平だけでなく、私も驚いて息子の顔を見る。恭平も目を丸く見開いたまま門の前で立ち止まっていた。まさかパパと呼ばれるなんて思ってもみなかったのだろう。
何度もパパだと告げても、これまで一度も息子がそう呼んでくれることはなかったのだから。
けれど、綾斗は得意げに鼻を膨らませて言った。
「だって、恭平は綾斗のパパなんでしょ」
ブンブンと手を振る息子に対し、恭平は破顔しながら手を振り返し「行ってきます」と答えてから駐車場のある方角へ歩いていった。
彼の後ろ姿がとても浮足立っているように見えて、私は小さく吹き出しつつもなぜか目に涙を溜める。胸の奥が一気に温かくなっていた。
夕方、恭平をもてなすための少し豪華な夕飯の支度をしながら、私は廊下から聞こえてくる足音に耳を澄ませていた。ボロアパートは階段を上がるだけでも音が響いてしまうから、深夜の出入りにはかなり気を付けなければいけない。
遠くからカツカツという革靴で階段を上がってくる音が聞こえてきたかと思うと、すぐに部屋の前の廊下で足音が止む。おそらく恭平が玄関チャイムを押そうと手を伸ばしたタイミングで、待ち構えていた綾斗が中からドアを勢いよく開く。
「パパ!」
玄関に置いていた私のパンプスを履いて出て行き、転びそうになった綾斗の身体を恭平は慌てて片手で受け止めていた。三歳児の行動はほぼ勢いで、予想外の動きも多いからハラハラする。
「危ないからママの靴を勝手に履いたらダメだろ」
「えーっ、いつも履いてるから大丈夫だよー」
「いや、全然大丈夫じゃなかったし……」
来て早々のお小言もあっさりと言い返されて、恭平は苦笑いを浮かべている。私はそんな二人の言い合いがおかしくて、鍋に入ったシチューを温め直しながら声を出して笑った。