シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです

第二十一話

 社長の乱雑なメモ書きに目を凝らしつつ、モニターに向かってキーボードを叩く。前日の退勤間際に指示された書類を作成しながら、私はデスクの隅で騒々しく鳴り出した外線電話に手を伸ばす。
 今日は柿崎さんはお休みで、野瀬さんは外回り。事務所には私と社長の二人だけだ。社長がいる日は来客が集中することが多く、朝からお茶を出したりとバタバタしていたが、今はようやく客足が途切れたタイミングだった。

「はい、辻井不動産です」
「あの、そちらに大槻小春さんという方がお勤めされていると伺ったのですが――」
「……はい、大槻は私ですが?」

 電話は聞き覚えのない若い男性の声だった。私宛の電話というと、保育園から緊急時に掛かってくることもあるが、峰岸先生が辞めさせられた後、園に男性保育士はいなかったはずだ。
 相手は私が名乗り返すと、しばらく黙り込んでしまった。

「あの……どちら様でしょうか?」

 首を傾げ、不審な顔で聞き直している私のことを、窓に近い席から社長が首を伸ばして心配そうに見ている。業務上の問い合わせではなさそうだと、私の話し方で気付いたのだろう。人手が少ない日に早退は勘弁してくれよとでも言いたげな顔をしている。
 私が聞き直したことで、電話の向こうの相手がハッとしたように話し始める。どうやら、いきなり本人が出たから驚いてしまったという風だった。

「あ、すみません。私は芝原と申します。ええっと、芝原勇也の息子です」
「……芝原勇也」

 受話器越しに聞こえて来た名前を私は小さく繰り返す。別にその名前に心当たりがないというわけじゃない。ここしばらくは耳にする機会はなかったけれど、私にとって忘れることなんて不可能な人の名前だった。
 芝原勇也というのは、私が小学生の頃に母が別れた相手――つまり、私の父親の名前だった。自分の戸籍を確認すれば嫌でも目に付く名前だ。

「あの人の、息子ですか……?」
「はい。父から小春さんのことを聞きました。私も自分に姉がいるというのはつい先日知ったばかりで」

 私のことを姉と呼ぶということは、彼は父の再婚後の子供なのだろうか。自分に血の繋がった兄弟がいるなんて、今初めて知った。ずっと一人っ子だと思っていたのに。
 腹違いの弟だという人は、かなり言葉を選びながら慎重に話しているようだった。彼の方も私という、いきなり知らされた姉の存在にかなり戸惑っているのが伝わってくる。

「あの、つまりどういったご用件でしょうか? 私の両親はかなり前に離婚してるので……」

 父と最後に会った日のことなんて一切覚えてもいない。多分、小学校の低学年くらいだったと思うけれど。
 普段から外泊も多く、家にいなくて当然のような人だったし、何日も顔を見ないなと思って母に訊ねたら『ああ、こないだ離婚したの』とあっさり言われた。そのくらい居てもいなくても変わらない存在だったと言ってもいい。
 学年が変わるタイミングを待ってから、私は苗字を母方の姓である大槻で名乗らされるようになった。
 だからもし父が何か困って助けを求めているのだとしても、私には手を貸さないといけない理由はない。あの人に親らしいことなんてしてもらった覚えがないのだから。
 母が夜に一人で泣いているのを知っていたけれど、別に恨んではいないし嫌悪も感じないが、情も愛情もこれっぽちもない。

 私の父に対する警戒心が伝わったのか、電話の向こうの弟だという男性が慌てたように否定する。

「あ、いえ、そういうのではないんです。ただ、父が小春さんに会いたがってまして……」
「私に? 今更どうしてですか?」
「実は、父は心臓を患っていまして、近いうちに手術を受けることになったんです。別に難しい手術というわけではないんですが、入院自体が初めてだったので気弱になったんだと思います。それで、長く会っていない娘に会いたいと言い出したんです」
「はぁ……」

 私が呆れ混じりの返事をしていると、何があったのかと社長がまたこちらを覗き見てくる。私は作り笑顔で「何でもないです」と首を横に振ってみせた。
 ほぼ一方的に事情を説明されてから、私は彼の連絡先と父が入院しているという病院名をほぼ強引に聞かされる。そして、手術の予定まではまだ二週間ほどあるらしく、できたら一度だけでも顔を見せてあげて欲しいと頼まれてしまった。
 どうやら、父は私に対して謝りたいと言っているらしい。

 再婚後、これまであえて触れることが無かった娘の存在。それを明かすほど今、父がとても弱っているのだと、息子である彼は私のところに連絡してきたのだ。きっと父親想いの優しい息子なのだろう。
 でも、それは彼ら家族にとって美談になるのかもしれないが、正直言って私には迷惑でしかない。相手の気持ちを完全に無視してくるところは、やっぱりあの人の息子なんだなと感心してしまう。呼び出される私が傷付かないとでも思っているんだろうか。

 おろしたばかりの受話器をじっと見つめながら、私は何度目かの呆れた溜め息を吐いた。
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