シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです

第二十四話

 廊下を行き来する病院関係者の忙しない足音と、同じ病室の他の患者の咳払いとイビキ。誰かが出入りする度にカーテンを開け閉めする音が響き、斜め向かいでは老夫婦が親戚の誰かから聞いたという噂を大きな声で話している。
 こんな騒がしい場所では深刻な話をする気にもなれない。

「あいつ――悠輝が連絡してくれたのか……?」

 父が私に向かって聞いてくる。悠輝というのは、さっきの青年の名前なのだろう。そういえば一方的に彼から名前を呼ばれていたが、彼の名前は知らされていなかったことを思い出す。
 私は改めて父に向かって弟のことを訊ねる。

「あの人、悠輝っていうんですね。いくつなんですか?」
「確か、今年で二十四だったかな」

 弟は私より三つ下らしい。思った通り、彼は私とそこまで歳が違わなかった。
 父から聞いて私はあからさまにムッとした表情に変わる。それが何を意味するのか父は気付いていないらしく、彼が大学卒業後は会計事務所に勤めて税理士の資格取得を目指していると嬉しそうに説明してくる。きっと自慢の息子なのだろう。
 父は私との会話の糸口を弟の話題で見つけたと思ったのか、とても嬉しそうだった。父親想いの優しい弟と、優秀な息子のことを得意げに話す父親。二人はとてもよく似ていると思わずにいられない。特にどちらも、私の気持ちなんて考えてもいないところが。

「……お母さんと別れる前から、他に子供がいたんですね」

 私の直接的な指摘に、父の表情がようやく歪んだ。私が自分から進んで見舞いに来たのではないと、やっと気付いたらしい。気マズそうに視線を布団の上に落として黙り込む。

「お母さんは何も言わなかったから、私は今まで何も知らなかったんですけど。そういうことだったんですか……」

 両親が離婚した原因は、父の不貞にあったのだ。あまり自宅に帰ってくることがなかったのは、父には他にもう一つ家庭があったから。二十年の歳月を経て、ようやく全てが腑に落ちた。

「そうか、小春は何も聞いてなかったのか。じゃあ、驚いただろうな……」
「ええ、驚きました。ずっと会いにも来なかった父親が、こんな風に自分の都合だけで気軽に呼び付けてくるなんて、ビックリですよ」

 呆れた溜め息を吐いてみせながら私が淡々と言うと、父は驚いたように目を見開いていた。子供の頃、私はたまに帰ってくる父に嫌われたくなくて、おとなしくて聞き分けの良い子のふりをしていたことがある。きっとその当時の素直で可愛い娘のままだとでも勝手に思っていたのだろう。本当に都合が良過ぎて反吐が出る。

「……すまない。小春にも、奈津佳にも、申し訳ないと思ってる」

 遅すぎる謝罪の言葉は、私の心には何も響いては来なかった。頭を下げた父の頭頂部は少し薄くなっていて、白髪の多い髪は私が全く知らない父親の姿だ。
 病院の備品らしいパイプ椅子から立ち上がると、私はトートバッグを抱え直してから父のことを冷めた目で一瞥する。

「今更、勝手なことばかり言わないで下さい。亡くなった母のことを思ったら、許せるはずがないでしょう」

 何年経とうが、父は身勝手な男のままだった。私の捨て台詞のような言葉をベッドの上の父がどんな顔で聞いていたのかなんて分からない。一度も振り返ることなく、私はカーテンを開けて病室を飛び出した。ただ、後ろから気弱な声で一度だけ名前を呼ばれたのだけはちゃんと聞こえていた。
 私に対し謝りたいと言っていたという父親。でも、その謝罪はただの自己満足でしかなかった。謝ることで全てが許されるだなんて、そんな都合の良い世の中であっていいわけがない。懺悔は自分のためにするものではないはずだ。

「あんな人に、会いにこなければ良かった……」

 一人で子供を育てることの大変さは、私もよく分かっているつもりだ。女手一つで私のことを引き取って育ててくれた母のことがとても不憫に思え、私は病棟の廊下を歩きながら涙を堪えるよう天井を見上げた。
 待ち合いスペースでテレビを見ていた綾斗達のところへ戻ると、息子と並んでベンチに座っていた恭平が私のことを怪訝そうに見上げる。

「何か嫌なことがあった?」

 綾斗が見ているテレビがまだ途中だからと、隣の席をポンポンと手で叩いて私にも座るよう勧めてくる。私は一瞬躊躇ったものの、帰ろうと誘ってもキリの良いところまで観ないと車の中で綾斗がグズるのが分かっていたし、諦めて恭平の横に腰を下ろした。

「大丈夫。ちょっと腹が立ったというか、情けなくなったというか……」

 怒りと呆れと寂しさと、とにかく複数の感情が入り混じっている。知らなくて良かったことまで知ったショックも大きかったし、母の当時の状況を思うと辛くなった。

「そっかぁ」

 短くそう漏らした後、恭平は横から私の頭に手の平を乗せてくる。撫でるでも叩くでもなかったけれど、ただその重みと手の平の熱に少しだけ心が癒されるようだった。
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