シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第二十五話
社長が出張で不在のために、事務所の鍵を開ける役割を担った私はいつもより少し早めに出勤する。まだ誰もいない事務所は真っ暗で、入り口すぐ脇の壁のスイッチを順に押していくと、一気に視界が明けていく。
閉じられていたブラインドを全開にして回り、換気のために窓を少し開けると駅前ロータリーで路線バスが短いクラクションを鳴らしたのが聞こえてきた。
給湯室でコーヒーサーバーをセットし、コンロにヤカンをかけてお湯を沸かす。昨日の私の退勤後にまた来客があったらしく、シンクには二客分のカップが放置されていた。それを手早く洗ってから布巾の交換をしていると、入り口から誰かが入ってくる気配がした。
てっきり小林さんだろうと、私は特に確認もせずに給湯室の中から朝の挨拶をする。この時間に遠慮なく入ってくるのは鍵を取りに来る店長くらいだと思い込んで。
「おはようございます」
淹れ終わったばかりのコーヒーをカップに注ぎ入れ、自分の分と一緒に持って出ると、社長のデスク横にある壁掛けのキーボックスから店舗の鍵を取り出していた女性が私の足音で振り返る。黒のタイトスカートにジャケットを着て、ショートボブの髪は落ち着いたブラウン。契約社員の飯塚さんだ。
さっき入ってきたのが小林さんじゃないと気付いて、私は心の中でしまったと思いながらも気まずさを誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
「あ、今日は店長は公休でしたっけ? 飯塚さん、コーヒー飲まれます?」
小林さんの代わりに鍵を取りに来たらしい飯塚さんは、有無を言わさず私が差し出したカップを躊躇いながらも受け取ると、呆れたようにハァと大きな溜め息を吐いていた。
「事務は朝からのんびりできていいですよね。こっちは開店準備とかでバタバタなのに」
「でも、まだ一時間前じゃないですか。店長は毎日コーヒーを飲んでから下りていかれますよ」
棘のある飯塚さんの言葉に、私は平然と答える。
そして、デスクにカップを置いてからパソコンを立ち上げ、メールで新着の物件情報を探し出すとそれを印刷する。プリンターから出てきたばかりの物をまとめてファイルに綴じて、カウンターに凭れながらコーヒーを飲んでいた飯塚さんの目の前に差し出すと、彼女はなぜか苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「で、子供さんはもう元気になったの?」
私からわざと視線を外しながら聞いてくる飯塚さんに、私は驚いてキョトンとした表情を向ける。彼女がそんなことを急に言ってくるとは思わなかったからだ。
「あ、はい。ただの風邪だったので、もうすっかり治りました」
「……そう」
私が子供の看病で有給を使おうとしていたのを誰かから聞いたのだろうか。でもそれを誰よりも反対して社長へクレームを言ったのは飯塚さんだったはずだ。どういう風の吹き回しだろうか?
「柿崎さんから説教されたのよ。大槻さんは自分のために有給消化したことは一度もないって。お子さんが体調崩した時とか保育園の行事の時だけだって……」
来月分のシフトで旅行のためにと連休を希望したという飯塚さんに対して、柿崎さんがブチ切れしてくれたらしい。
「子供がいない私には分からないことだろうけどって言われて、正直カチンときたけど実際そうなのよね……」
飯塚さんは三か月に一度くらいの割合で長めの連休を取ることがある。彼女の唯一の趣味だという旅行のためだ。お得なプランを見つけたとか言っては、店の繁忙期だろうと構わずに休みを希望することがある。
柿崎さんから、それが正社員になれない原因だと指摘されてようやく気付いたのだという。私へのクレームは完全にお門違いだったと。
飯塚さんは特に謝罪の言葉なんて口にしなかったけれど、コーヒーを飲み終わると「ごちそうさま」と呟いてからカップを持って給湯室に向かった。
洗い物のために水を流している音を聞きながら、私は小さく口の端を上げる。同い年の同僚が素直じゃないのは別に今に始まったことじゃない。
店舗の鍵と物件情報が入ったファイルを手に事務所を出て行く際、飯塚さんは一度立ち止まってから私の方を振り返る。そして、少し考えるような素振りを見せた後、神妙な顔つきで言ってきた。
「大槻さんって今のあのアパートのままでしたっけ?」
私が祖母の家を出ることになった時、一緒になって物件探しを手伝ってくれたのは飯塚さんだった。あの当時はまだ険悪になる前だったから仕事の合間にいろいろ相談に乗ってもらうことがあった。
私が「そうですよ」と頷き返したのを確認すると、飯塚さんはわずかに眉を動かして困惑の表情になる。我が家のボロさ加減をよく知っているから、まだあんなところにと呆れているのだろうか。
「なら、早いうちに引っ越し先を探した方がいいかもですよ」
「はぁ……」
私だってそれが出来るならそうしたい。家賃は安いけれど決して環境が良いとは言えないのだから。でも、子連れの住居探しはそう簡単にはいかないのは一緒に物件探しをした彼女だってよく分かっているはずなのに。
モヤモヤし始める私のことを放置して、飯塚さんは店舗の開店準備のために階下へと向かっていった。
閉じられていたブラインドを全開にして回り、換気のために窓を少し開けると駅前ロータリーで路線バスが短いクラクションを鳴らしたのが聞こえてきた。
給湯室でコーヒーサーバーをセットし、コンロにヤカンをかけてお湯を沸かす。昨日の私の退勤後にまた来客があったらしく、シンクには二客分のカップが放置されていた。それを手早く洗ってから布巾の交換をしていると、入り口から誰かが入ってくる気配がした。
てっきり小林さんだろうと、私は特に確認もせずに給湯室の中から朝の挨拶をする。この時間に遠慮なく入ってくるのは鍵を取りに来る店長くらいだと思い込んで。
「おはようございます」
淹れ終わったばかりのコーヒーをカップに注ぎ入れ、自分の分と一緒に持って出ると、社長のデスク横にある壁掛けのキーボックスから店舗の鍵を取り出していた女性が私の足音で振り返る。黒のタイトスカートにジャケットを着て、ショートボブの髪は落ち着いたブラウン。契約社員の飯塚さんだ。
さっき入ってきたのが小林さんじゃないと気付いて、私は心の中でしまったと思いながらも気まずさを誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
「あ、今日は店長は公休でしたっけ? 飯塚さん、コーヒー飲まれます?」
小林さんの代わりに鍵を取りに来たらしい飯塚さんは、有無を言わさず私が差し出したカップを躊躇いながらも受け取ると、呆れたようにハァと大きな溜め息を吐いていた。
「事務は朝からのんびりできていいですよね。こっちは開店準備とかでバタバタなのに」
「でも、まだ一時間前じゃないですか。店長は毎日コーヒーを飲んでから下りていかれますよ」
棘のある飯塚さんの言葉に、私は平然と答える。
そして、デスクにカップを置いてからパソコンを立ち上げ、メールで新着の物件情報を探し出すとそれを印刷する。プリンターから出てきたばかりの物をまとめてファイルに綴じて、カウンターに凭れながらコーヒーを飲んでいた飯塚さんの目の前に差し出すと、彼女はなぜか苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「で、子供さんはもう元気になったの?」
私からわざと視線を外しながら聞いてくる飯塚さんに、私は驚いてキョトンとした表情を向ける。彼女がそんなことを急に言ってくるとは思わなかったからだ。
「あ、はい。ただの風邪だったので、もうすっかり治りました」
「……そう」
私が子供の看病で有給を使おうとしていたのを誰かから聞いたのだろうか。でもそれを誰よりも反対して社長へクレームを言ったのは飯塚さんだったはずだ。どういう風の吹き回しだろうか?
「柿崎さんから説教されたのよ。大槻さんは自分のために有給消化したことは一度もないって。お子さんが体調崩した時とか保育園の行事の時だけだって……」
来月分のシフトで旅行のためにと連休を希望したという飯塚さんに対して、柿崎さんがブチ切れしてくれたらしい。
「子供がいない私には分からないことだろうけどって言われて、正直カチンときたけど実際そうなのよね……」
飯塚さんは三か月に一度くらいの割合で長めの連休を取ることがある。彼女の唯一の趣味だという旅行のためだ。お得なプランを見つけたとか言っては、店の繁忙期だろうと構わずに休みを希望することがある。
柿崎さんから、それが正社員になれない原因だと指摘されてようやく気付いたのだという。私へのクレームは完全にお門違いだったと。
飯塚さんは特に謝罪の言葉なんて口にしなかったけれど、コーヒーを飲み終わると「ごちそうさま」と呟いてからカップを持って給湯室に向かった。
洗い物のために水を流している音を聞きながら、私は小さく口の端を上げる。同い年の同僚が素直じゃないのは別に今に始まったことじゃない。
店舗の鍵と物件情報が入ったファイルを手に事務所を出て行く際、飯塚さんは一度立ち止まってから私の方を振り返る。そして、少し考えるような素振りを見せた後、神妙な顔つきで言ってきた。
「大槻さんって今のあのアパートのままでしたっけ?」
私が祖母の家を出ることになった時、一緒になって物件探しを手伝ってくれたのは飯塚さんだった。あの当時はまだ険悪になる前だったから仕事の合間にいろいろ相談に乗ってもらうことがあった。
私が「そうですよ」と頷き返したのを確認すると、飯塚さんはわずかに眉を動かして困惑の表情になる。我が家のボロさ加減をよく知っているから、まだあんなところにと呆れているのだろうか。
「なら、早いうちに引っ越し先を探した方がいいかもですよ」
「はぁ……」
私だってそれが出来るならそうしたい。家賃は安いけれど決して環境が良いとは言えないのだから。でも、子連れの住居探しはそう簡単にはいかないのは一緒に物件探しをした彼女だってよく分かっているはずなのに。
モヤモヤし始める私のことを放置して、飯塚さんは店舗の開店準備のために階下へと向かっていった。