シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです

第三十五話

 期待していた物件があまりにも想像の斜め上をいっていた。さすがにあそこに小さな子供を住ませるわけにはいかない。そのせいで落ち込む気分を引き摺ったままアパートまで戻ってくると、二階の廊下に人影が見えた。
 荷物が届く予定もないし、誰かが訪ねてくることもほとんどないから、二つ隣の住民かと特に気にしていなかったら、同じように気付いた綾斗が嬉しそうに声を上げた。

「パパだ!」

 繋いでいた手を振り解き、歓声を上げながら駆け出す息子を私は驚いて目で追う。私の位置からは柱が邪魔してしまっていたが、子供の目線の先には恭平の姿がはっきりと見えたのだという。
 私はまさかという思いを抱きながら、綾斗の後ろを追いかける。
 甲高い足音を響かせて上った二階の廊下では、もう二度と会うことはないのかと思っていた人が、興奮した三歳児にまとわりつかれて嬉しそうに笑っていた。手にはいつものケーキ屋の白い箱を携えて。

「おかえり、二人で出掛けてたんだな」

 まるで何もなかったかのように以前と同じ風に話し掛けてくる恭平のことを、私は無言で見る。少し頬が痩せ、目元に疲れが出ているように見えるのは気のせいだろうか。
 でも、私達へ向けてくる穏やかで優しい視線は何も変わってはいない。

「今度住む家を見に行ってたんだよ」

 私の代わりに答えた綾斗に、恭平は「ああ、そうか」と事情は分かっているというように頷き返していた。少しも驚いた様子はないから、このアパートの立ち退きの話はとっくに知っているのだろう。

「でもね、お化け屋敷だったから怖くなって帰ってきたの」
「お化け屋敷?」
「うん、ボロボロのお家でビックリした」

 綾斗の説明では想像がつかないのか、恭平が困ったように私のことを見てくる。私の職場がそんな物件の取り扱いまであるのかとでも言いたいのだろう。あれは例外中の例外だ。あんなものを改修もせずに扱っていたら、そのうちに事故でも起きて大変なことになる。

「社長の知り合い経由でちょっと……非公開の事故物件みたいなものかな」
「じゃあ、契約はまだってことだよな?」
「でも、このアパートは解体されるから、急いでここは出なきゃならないみたいだけどね。条件にあう部屋がなかなか……」

 私は玄関の鍵を開けてから、恭平にも中へ入るようにと促す。彼が急に荷物を引き上げて音信不通になったのにも、きっと理由があるはずだろうから。
 部屋に入りながら、このアパートが都市開発のために立ち退かなければならないと大家さんからの通知が来たと伝えると、案の定そのことを知っていたらしく恭平は「ああ」と短く返事するだけだった。

 彼が急に隣からいなくなったことを、どう聞けばいいのかと私が考えあぐねていると、洗面所で手洗いうがいを済ませて戻ってきた綾斗が無邪気に訊ねた。幼児はいつでも直球だ。

「パパ、もうお隣には住まないの?」

 冷蔵庫から保冷ポットを取り出してグラスに麦茶を注ぎ入れながら、私は黙って彼の回答を待った。
 週刊誌の記事通りなら、彼は縁談が進んでいるから私達の元から去ったのだと思っていた。だから今日も、気まぐれに最後のお別れでも伝えに来たのかもしれないと。
 人によっては結婚した後も曖昧な関係を続けることもあるかもしれないが、彼の性格ではそれは考えられない。

 でも、恭平は自分を見上げている綾斗を抱っこしたまま畳の上に座り込むと、私が台所から戻るのを黙って待っていた。胡坐をかいた彼の膝の上で、綾斗は前に水族館で買ってもらったペンギンのぬいぐるみを得意げに抱えながら座り込んでいる。

「こっちもようやく落ち着いたから、今日は二人を迎えに来た」

 私が差し出したグラスを受け取って、恭平は麦茶をゴクゴクと半分近く飲み干してから少し真面目な表情でそう告げて来た。
 私は彼の言った意味が分からず、顔を上げて恭平のことを見つめる。

「でも恭平は……」
「ごめん、何の連絡もしなかったのは悪いと思ってる。だけど、どこで何の目があるか分からなくて――」
「うん、私も週刊誌の記事は見たよ」

 ネットニュース系の一部サイトでは恭平のことを張り込んでいるような記事も上がっていた。誰がどこで見ているか分からないという恐怖は体験した人にしか理解できないのだろう。彼のうんざりした表情が全てを物語っているようだった。

「でも、迎えに来たって、どういうこと?」

 今日ここに来れたということは、もうマスコミの目から逃れられたのだろうか?
 別の女性との縁談が進んでいるはずの彼が、私達を迎えに来たなんて言ってくる真意が分からず私は恭平の目をじっと見る。
 彼は私が何を言おうとしているのか分かったのか、困惑したように右手で自分の後頭部を掻いた。

「ああ、あれはその……」
「地方議員の娘とお見合いするって書いてたよ」
「……うん、まあ、実際にそういう話も上がってたことはあったけど、そんなのはすぐに断った。誰が会社のためにそこまでするもんか」

 ハァと呆れたように深い溜め息を吐いた恭平は、私の目を見つめながらゆっくりと説明してくれる。週刊誌の記事に書かれていたことの半分はでっち上げだったけれど、事情があって会社としてすぐに否定することができなかったのだと。
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