シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第三十七話
ケーキを食べ終わった後、「ごちそうさまでした」とお行儀よく手を合わせた綾斗の頭に手を乗せて、恭平はクシャクシャと褒めるように撫でていた。
帰宅したばかりでペコペコだと言っていた綾斗のお腹も落ち着いたらしく、部屋の隅に置いているプラスチック製の玩具カゴに頭から突っ込んでいる息子の様子を見守りながら、私もグラスに手を伸ばして麦茶を喉に流し込む。
「今回は俺の方の事情だったけど、小春と連絡が取れない状態はさすがにキツかった。知らない内に小春がまたどこかへ行ってしまうんじゃないかって」
実際、恭平の言う通りに私達はついさっきまで新しく引っ越す家を探して回っていた。決まったらすぐにでもここを出ていたはずだ。それは決して彼から逃げるためなのではないのだけれど。
他の住民もほとんど立ち退いてしまい、今は残り三部屋だけになっていて、大家さんからの無言の圧を感じ始めていたところだった。
「この辺りの開発予定をできるだけ遅らせるように手を回してはいたけど、小春がいつここを出てくか分からなかったから、ハラハラしたよ。こっちの処理がもう少し遅かったらまた見失うところだった……」
「え……?」
「まあ、うちの関連会社も都市開発には一枚噛んでたから、他のエリアから優先して着手するよう調整させて――」
開発計画については詳しいことは知らされていなかったが、本来はもっと早くに追い出されていたところだったのだという。私達がここに長く留まれるようにとギリギリまで先延ばしさせていたのは、彼が代表を務める望月コーポレーションの関連会社だったらしい。
例の議員と関わることになったのも、その辺りからなのだという。
「公私混同もいいところだけどな」と照れ笑いしながら、恭平はホッと安堵したような表情を見せる。
そして、また調査会社を使って探す羽目にならなくて良かった、と冗談ぽく言ってから、座ったまま私の方に上半身を正面に向けてきて改まったように背を伸ばした。普段はあまり見せないような真剣な顔で。
「このアパートを出た後は、綾斗と一緒に俺のところへ来てくれないか」
「……恭平のところ?」
「ああ、綾斗の保育園は別のところを探さないといけないだろうけど……」
彼のマンションなら私もよく知っている。ファミリー向けの分譲マンションだから、このアパートより遥かに広い。確かにあそこからだと、今の園へ通うのは無理だろう。
どちらにしても引っ越し先によっては転園も覚悟はしていたし、樋口先生へもそれとなく別のところへ移ることになるかもと伝えてはいる。
「もう二度と、俺の前から消えたりして欲しくはないんだ」
「でも……」と返事を躊躇う私に、恭平が懇願するように言ってくる。
私は彼が自分達の前からいなくなった時に感じた喪失感を思い出し、四年前の彼も同じ気持ちになっていたことを改めて気付かされる。あんなに残酷なことを彼に対してしたのに、恭平は私のことをまた受け入れようとしてくれている。
彼の愛の深さを感じ、私は黙って頷き返そうとしたが、少し考えてからおそるおそると恭平へ向かって確認する。
「恭平は本当に、私でいいの?」
今だって彼の相手が私なんかでは釣り合わないと思ってしまう。彼にはもっと相応しい相手を探した方がいいんじゃないかって。どれだけ優しい言葉を掛けられても、その不安が一向に拭い去られることはなかった。
私のそんな自己肯定感の低い思考を理解しているとでもいうように、恭平は呆れ笑いを浮かべる。彼の言葉だけでは私が納得しないのが分かっているからだ。彼からの愛情を疑ったことはないけれど、それでは理由にならない。
「俺は小春以外は考えたことがないんだけどな」
「だって、私は……」
私の口から再び否定的な言葉が出そうになるのを、恭平は首を横に振って制してくる。そして、とても優しい笑みを瞳に浮かべながら、私のことをじっと見つめてくる。
「小春のことと同じくらい、綾斗のことも大事だと思ってる。綾斗は俺の子供でもあるんだから、一緒に育てさせて欲しいんだ。別に小春が俺と一緒にいる理由を息子にしてくれたっていい」
自分に対して自信のない私に、綾斗のために家族になることを提案してくれる。それなら一緒にいる十分な理由付けになるだろうと。誰が何と言おうと、この子が恭平の血を引く子供であることは紛れもない事実なのだから。
私はしばらく考えるために俯いた後、静かに顔を上げる。どんな理由であってもいいから一緒にいて欲しいと必死で伝えてくれる恭平に対し、首を横に振るなんてことができるはずがない。
私は恭平の目を見つめてから、ゆっくりと首を縦に動かしてみせた。
「もう、黙っていなくなったりはしないでね」
「そっちこそ」
私達は互いに目を合わせながら、声を出して笑う。驚いた綾斗がペンギンのぬいぐるみを抱っこしながら、キョトンと私と恭平の顔を交互に見比べていた。
帰宅したばかりでペコペコだと言っていた綾斗のお腹も落ち着いたらしく、部屋の隅に置いているプラスチック製の玩具カゴに頭から突っ込んでいる息子の様子を見守りながら、私もグラスに手を伸ばして麦茶を喉に流し込む。
「今回は俺の方の事情だったけど、小春と連絡が取れない状態はさすがにキツかった。知らない内に小春がまたどこかへ行ってしまうんじゃないかって」
実際、恭平の言う通りに私達はついさっきまで新しく引っ越す家を探して回っていた。決まったらすぐにでもここを出ていたはずだ。それは決して彼から逃げるためなのではないのだけれど。
他の住民もほとんど立ち退いてしまい、今は残り三部屋だけになっていて、大家さんからの無言の圧を感じ始めていたところだった。
「この辺りの開発予定をできるだけ遅らせるように手を回してはいたけど、小春がいつここを出てくか分からなかったから、ハラハラしたよ。こっちの処理がもう少し遅かったらまた見失うところだった……」
「え……?」
「まあ、うちの関連会社も都市開発には一枚噛んでたから、他のエリアから優先して着手するよう調整させて――」
開発計画については詳しいことは知らされていなかったが、本来はもっと早くに追い出されていたところだったのだという。私達がここに長く留まれるようにとギリギリまで先延ばしさせていたのは、彼が代表を務める望月コーポレーションの関連会社だったらしい。
例の議員と関わることになったのも、その辺りからなのだという。
「公私混同もいいところだけどな」と照れ笑いしながら、恭平はホッと安堵したような表情を見せる。
そして、また調査会社を使って探す羽目にならなくて良かった、と冗談ぽく言ってから、座ったまま私の方に上半身を正面に向けてきて改まったように背を伸ばした。普段はあまり見せないような真剣な顔で。
「このアパートを出た後は、綾斗と一緒に俺のところへ来てくれないか」
「……恭平のところ?」
「ああ、綾斗の保育園は別のところを探さないといけないだろうけど……」
彼のマンションなら私もよく知っている。ファミリー向けの分譲マンションだから、このアパートより遥かに広い。確かにあそこからだと、今の園へ通うのは無理だろう。
どちらにしても引っ越し先によっては転園も覚悟はしていたし、樋口先生へもそれとなく別のところへ移ることになるかもと伝えてはいる。
「もう二度と、俺の前から消えたりして欲しくはないんだ」
「でも……」と返事を躊躇う私に、恭平が懇願するように言ってくる。
私は彼が自分達の前からいなくなった時に感じた喪失感を思い出し、四年前の彼も同じ気持ちになっていたことを改めて気付かされる。あんなに残酷なことを彼に対してしたのに、恭平は私のことをまた受け入れようとしてくれている。
彼の愛の深さを感じ、私は黙って頷き返そうとしたが、少し考えてからおそるおそると恭平へ向かって確認する。
「恭平は本当に、私でいいの?」
今だって彼の相手が私なんかでは釣り合わないと思ってしまう。彼にはもっと相応しい相手を探した方がいいんじゃないかって。どれだけ優しい言葉を掛けられても、その不安が一向に拭い去られることはなかった。
私のそんな自己肯定感の低い思考を理解しているとでもいうように、恭平は呆れ笑いを浮かべる。彼の言葉だけでは私が納得しないのが分かっているからだ。彼からの愛情を疑ったことはないけれど、それでは理由にならない。
「俺は小春以外は考えたことがないんだけどな」
「だって、私は……」
私の口から再び否定的な言葉が出そうになるのを、恭平は首を横に振って制してくる。そして、とても優しい笑みを瞳に浮かべながら、私のことをじっと見つめてくる。
「小春のことと同じくらい、綾斗のことも大事だと思ってる。綾斗は俺の子供でもあるんだから、一緒に育てさせて欲しいんだ。別に小春が俺と一緒にいる理由を息子にしてくれたっていい」
自分に対して自信のない私に、綾斗のために家族になることを提案してくれる。それなら一緒にいる十分な理由付けになるだろうと。誰が何と言おうと、この子が恭平の血を引く子供であることは紛れもない事実なのだから。
私はしばらく考えるために俯いた後、静かに顔を上げる。どんな理由であってもいいから一緒にいて欲しいと必死で伝えてくれる恭平に対し、首を横に振るなんてことができるはずがない。
私は恭平の目を見つめてから、ゆっくりと首を縦に動かしてみせた。
「もう、黙っていなくなったりはしないでね」
「そっちこそ」
私達は互いに目を合わせながら、声を出して笑う。驚いた綾斗がペンギンのぬいぐるみを抱っこしながら、キョトンと私と恭平の顔を交互に見比べていた。