シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第五話
「綾斗にはパパはいないの?」
初めて息子から聞かれたのは半年前のことだ。保育園のお友達の中には仕事の関係か父親が送り迎えする家もある。中には我が家とは逆に母親が不在というケースもあるだろうし、普段の子供達は誰が送り迎えに来ても疑問に感じることはなさそうだった。
でも、同じクラスの男の子が父親から肩車されながら登園して来たのを見て、綾斗は初めて自分に父親がいない理由を知りたがった。天井近くではしゃいでいる友達のことを羨ましそうに見上げながら。
「パパかぁ……今はどこにいるんだろうねぇ?」
下手な嘘もつけず、私は息子から視線を逸らして誤魔化した。あの時は何と答えてあげたら良かったのか、いまだに正解は見つけられていない。
「うちの場合は『パパは死んでお星様になっちゃった』って教えてるわ」
そう答えてくれたのは、年中クラスの浜田瑛太君のママだ。お迎えの時間に子供同士が仲良く遊んでいたのがキッカケで話すようになり、互いに似た状況で子育てしていると知って個人的な話もするようになった。同じシングルマザーではあるけれど、彼女は未婚の母である私とは違って既婚歴があるし、元旦那の写真も一応は残していると言っていた。
「向こうは子供に興味ないし、一生会わせることもないだろうしね」
亡くなったことにすれば会いたがることもないから、と浜田さんは快活に笑っていたが、私は愛想笑いしか返すことができなかった。
また息子から父親について聞かれたら、何と答えたらいいんだろう。どんな人なのかくらいは正直に伝えてもいいんだろうか。綾斗があの人に会いたがった時、私はどうしてあげればいいんだろうか。
まだ三歳だから疑問に思わないことも、これから先に変わっていくかもしれない。
急に訪ねてきた恭平は「小春と綾斗の元気な顔を見れて良かった」とだけ言い残して、あっさりと帰って行った。残された息子からまたパパについて問い詰められるかと思ったけれど、彼がプレゼントしてくれた恐竜図鑑に夢中でそれどころじゃなかったみたいだ。
――綾斗が恐竜が好きってことまで知ってるんだ……
私達を探す際、かなり優秀な調査会社でも使ったに違いない。だってこのアパートのボロさに一切驚く素振りも見せなかったのだから。
私はテーブルの上に置かれたままの恭平の名刺を手に取って眺める。国内外にいくつもの支社を構える望月コーポレーション。その代表取締役社長の肩書に、ますます彼のことを遠い存在に感じてしまった。
――どうせ、もう会うことはないだろうし……
二十台前半で若くて、それなりにお洒落に気を使っていた頃の私とはもう違う。子供中心で生活感に溢れた姿を見て、彼もきっと幻滅したはずだ。
私は恭平の名刺を引き出しにしまい込んでから、夕飯の準備をするために台所に立つ。いつもより少し遅くなってしまったからと、冷凍庫の中から作り置きしておいた食材を取り出して、手早く二人分のご飯を用意する。途中、洗面所から洗濯終了の通知音が聞こえてきていた。
その週末、前日に保育園から持ち帰ってきたお昼寝布団をベランダに干していると、ずっと空き家だったはずの隣の部屋から人の話し声が聞こえてきた。業者が荷物を運び込んでいるようだから、誰かが引っ越して来たのだろう。
こんなボロアパートに住もうだなんて、きっと変わった人か訳アリに違いない。人のことは言えた義理じゃないけれど……
これまでは両隣が空き部屋だったからそこまで気にしていなかったけれど、今日からは音に気をつけて生活しないといけなさそうだ。なんせこのアパートの壁はとてつもなく薄い。
「子供が苦手な人じゃないといいんだけど……」
大家がいちいち「隣は小さい子供がいるお宅なんですよ」なんて説明してくれているとは思えない。イヤイヤ期は終わったみたいだけれど、大きな声で泣く時も騒ぐ時もまだまだある。子供の声がうるさいとクレームを言われたらどうしようもない。
仕事柄、その手の騒音トラブルの話はよく耳にすることがあるので、私は心底焦り始める。
「とりあえず、家具の配置を変えた方がいいかな。テレビは反対側にして――」
子供向けの番組を付けっぱなしにしていることもあるからと、頭を悩ませる。まだどんな人がお隣さんになったのかも分からないのだけれど……
と、私が必要以上に心配してオロオロしていた時、玄関のチャイムが鳴り始める。お隣さんの引っ越しの挨拶だろうか。捲り上げていたカットソーの袖を伸ばしながら、私は玄関ドアに手を伸ばす。
「はーい……って、恭平⁉」
チェーンも掛けずに開いたドアの向こうには、つい先日に会ったばかりの元カレの顔があった。こないだとは違いラフな私服姿の恭平は駅前にあるケーキ屋の箱を私へと差し出しながら、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「隣に引っ越してきました、望月です」
「えっ、なんで……⁉」
驚きつつも外を見ると、荷物を運び終えた引っ越し業者がアパートの下に停めた中型トラックに乗り込んでいるところだ。
「二人の傍にいたいから。でも、いきなり一緒に住もうって言っても断られるだろうし、ちょうど隣の部屋が空いてて助かった」
悪戯が成功した子供のように嬉しそうな笑顔を見せる元カレに、私は目をぱちくりさせながら絶句する。
彼から渡された白い三角の箱からはクリームとチョコの甘い香りがふんわりと漂っていた。
初めて息子から聞かれたのは半年前のことだ。保育園のお友達の中には仕事の関係か父親が送り迎えする家もある。中には我が家とは逆に母親が不在というケースもあるだろうし、普段の子供達は誰が送り迎えに来ても疑問に感じることはなさそうだった。
でも、同じクラスの男の子が父親から肩車されながら登園して来たのを見て、綾斗は初めて自分に父親がいない理由を知りたがった。天井近くではしゃいでいる友達のことを羨ましそうに見上げながら。
「パパかぁ……今はどこにいるんだろうねぇ?」
下手な嘘もつけず、私は息子から視線を逸らして誤魔化した。あの時は何と答えてあげたら良かったのか、いまだに正解は見つけられていない。
「うちの場合は『パパは死んでお星様になっちゃった』って教えてるわ」
そう答えてくれたのは、年中クラスの浜田瑛太君のママだ。お迎えの時間に子供同士が仲良く遊んでいたのがキッカケで話すようになり、互いに似た状況で子育てしていると知って個人的な話もするようになった。同じシングルマザーではあるけれど、彼女は未婚の母である私とは違って既婚歴があるし、元旦那の写真も一応は残していると言っていた。
「向こうは子供に興味ないし、一生会わせることもないだろうしね」
亡くなったことにすれば会いたがることもないから、と浜田さんは快活に笑っていたが、私は愛想笑いしか返すことができなかった。
また息子から父親について聞かれたら、何と答えたらいいんだろう。どんな人なのかくらいは正直に伝えてもいいんだろうか。綾斗があの人に会いたがった時、私はどうしてあげればいいんだろうか。
まだ三歳だから疑問に思わないことも、これから先に変わっていくかもしれない。
急に訪ねてきた恭平は「小春と綾斗の元気な顔を見れて良かった」とだけ言い残して、あっさりと帰って行った。残された息子からまたパパについて問い詰められるかと思ったけれど、彼がプレゼントしてくれた恐竜図鑑に夢中でそれどころじゃなかったみたいだ。
――綾斗が恐竜が好きってことまで知ってるんだ……
私達を探す際、かなり優秀な調査会社でも使ったに違いない。だってこのアパートのボロさに一切驚く素振りも見せなかったのだから。
私はテーブルの上に置かれたままの恭平の名刺を手に取って眺める。国内外にいくつもの支社を構える望月コーポレーション。その代表取締役社長の肩書に、ますます彼のことを遠い存在に感じてしまった。
――どうせ、もう会うことはないだろうし……
二十台前半で若くて、それなりにお洒落に気を使っていた頃の私とはもう違う。子供中心で生活感に溢れた姿を見て、彼もきっと幻滅したはずだ。
私は恭平の名刺を引き出しにしまい込んでから、夕飯の準備をするために台所に立つ。いつもより少し遅くなってしまったからと、冷凍庫の中から作り置きしておいた食材を取り出して、手早く二人分のご飯を用意する。途中、洗面所から洗濯終了の通知音が聞こえてきていた。
その週末、前日に保育園から持ち帰ってきたお昼寝布団をベランダに干していると、ずっと空き家だったはずの隣の部屋から人の話し声が聞こえてきた。業者が荷物を運び込んでいるようだから、誰かが引っ越して来たのだろう。
こんなボロアパートに住もうだなんて、きっと変わった人か訳アリに違いない。人のことは言えた義理じゃないけれど……
これまでは両隣が空き部屋だったからそこまで気にしていなかったけれど、今日からは音に気をつけて生活しないといけなさそうだ。なんせこのアパートの壁はとてつもなく薄い。
「子供が苦手な人じゃないといいんだけど……」
大家がいちいち「隣は小さい子供がいるお宅なんですよ」なんて説明してくれているとは思えない。イヤイヤ期は終わったみたいだけれど、大きな声で泣く時も騒ぐ時もまだまだある。子供の声がうるさいとクレームを言われたらどうしようもない。
仕事柄、その手の騒音トラブルの話はよく耳にすることがあるので、私は心底焦り始める。
「とりあえず、家具の配置を変えた方がいいかな。テレビは反対側にして――」
子供向けの番組を付けっぱなしにしていることもあるからと、頭を悩ませる。まだどんな人がお隣さんになったのかも分からないのだけれど……
と、私が必要以上に心配してオロオロしていた時、玄関のチャイムが鳴り始める。お隣さんの引っ越しの挨拶だろうか。捲り上げていたカットソーの袖を伸ばしながら、私は玄関ドアに手を伸ばす。
「はーい……って、恭平⁉」
チェーンも掛けずに開いたドアの向こうには、つい先日に会ったばかりの元カレの顔があった。こないだとは違いラフな私服姿の恭平は駅前にあるケーキ屋の箱を私へと差し出しながら、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「隣に引っ越してきました、望月です」
「えっ、なんで……⁉」
驚きつつも外を見ると、荷物を運び終えた引っ越し業者がアパートの下に停めた中型トラックに乗り込んでいるところだ。
「二人の傍にいたいから。でも、いきなり一緒に住もうって言っても断られるだろうし、ちょうど隣の部屋が空いてて助かった」
悪戯が成功した子供のように嬉しそうな笑顔を見せる元カレに、私は目をぱちくりさせながら絶句する。
彼から渡された白い三角の箱からはクリームとチョコの甘い香りがふんわりと漂っていた。