シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第六話
保育園への登園時間。毎日変わらずの慌ただしい朝を乗り越え、リュックと帽子を抱えながら綾斗の手を引いて玄関を出ると、同じタイミングで隣の部屋のドアがガチャリと開く音がした。
「おはよう。気を付けて」
ライトグレーのシャツの襟元にネクタイを結びながら、恭平が爽やかな笑顔で私と綾斗に向かって手を振ってくる。恭平は仕事の関係か毎日このアパートへ帰ってきているわけではないみたいだったけれど、部屋にいる時は私達が出掛けるのに合わせて外に顔を出して見送ってくれる。
「いってきまーす」
「ああ、いってらっしゃい」
最初の頃は人見知りで照れて黙っていた綾斗も、頻繁に顔を合わせるようになった彼に対して慣れてきたのか、元気よく挨拶を返すようになった。
きっとまだ隣の部屋に住んでる人くらいにしか思っていないのだろうが、それでも恭平は嬉しそうに笑っていた。
駐輪場で息子にヘルメットを被せてからママチャリの後ろに乗せながら、二階の廊下から自分の部屋へと戻っていく恭平のことを視界の隅で確認する。
彼が何を考えているのか、さっぱり分からない。社長になって仕事も以前よりずっと忙しくなっていそうなのに、会社から随分と遠いこんな場所に住もうとするだなんて。確か彼は本社ビルの近くにマンションを保有していたはずで、そっちにいる方が比べ物にならないくらい便利なはずなのに。
「ママ?」
「あ、ごめんっ……じゃあ、行こっか」
考え事をしてぼーっとしてしまった私のことを、綾斗が心配そうに顔を覗き込んでくる。チャイルドシートのベルトを息子のお腹の前でパチンと留めて、私はママチャリに跨ってからゆっくりと漕ぎ始めた。
私と恭平との出会いは、私が短大を卒業してすぐに勤めていた会社近くにある喫茶店。
それなりに大きいオフィス街だったから駅前の飲食店はランチの時間帯になるとどこもいっぱいだし、コンビニもいつも争奪戦状態になる。
節約も兼ねて普段はお弁当を作って来てデスクで食べるようにしていたけれど、その日は寝坊して間に合わず、私は以前から気になっていた裏通りにあるレトロな喫茶店を覗いた。
カランコロンと扉上部のベルが音を立てるのを聞きながら店内を見回してみると、等間隔で設置された木目調のテーブルはほとんど埋まっていた。
「申し訳ございません。只今、満席でして、もし相席でよろしければ……」
「あ、構いません」
店名入りのエプロンを着けた店員が、四人掛けテーブルに一人で座っていた男性客へと相席の確認しに向かう。声を掛けられた男性は頷き返しながらテーブルの上に広げていた書類を片付けるとビジネスバッグの中へしまい込んでいた。
「大変お待たせ致しました。お席へご案内いたします」
すぐに戻ってきた店員に誘導されて、私は男性客の斜め向かいに座る。そのたまたま相席になったビジネスマン風のスーツを着た人が恭平だ。
完全に初対面だったけれど、真正面の席というわけでもなかったからその時は軽く会釈を交わし合っただけだった。
テーブルに立て掛けられていたメニューのページを捲り始めて、私は心の底からかなり焦り出す。
店内のレトロな雰囲気そのままに、こだわりの詰まったメニュー。コーヒーの種類だけでも大量にあり、ソフトドリンクと合わせただけで三ページにも渡って並んでいる。
私はずらりと記載された食事メニューを眺めながら眉を寄せた。
「森の古株に座って見上げる木漏れ日のパスタ、って何? どういうこと……?」
拘りの料理名なのか、とにかくメニューを見ただけでは何の料理なのか分かり辛い。店に詩人か何かがいるんだろうか?
写真を見る限り、おそらくはキノコのクリームパスタっぽいが。特に写真の無い料理は料理名だけでは判別が難しい。
初めて入ったお店だから何を注文すればいいか分からず、私はメニューと睨めっこしながら唸っていた。相席まで用意してもらったけれど、今すぐにでも席を立って店を出たい気分だ。
すると、斜め向かいから笑い噛みしめた声で男性客が話し掛けてくる。
「もし苦手な物が無ければ、一番最後のページに日替わりのパスタランチが載ってるから、とりあえずそれを注文すれば間違いないです。今日のパスタはカルボナーラみたいですよ」
言われてメニューを閉じてひっくり返すと、彼の言った通りに十四時まで限定の日替わりメニューがあった。ドリンクとサラダ付きで普通にパスタを単品で頼むよりもお得な上に、理解不能な料理名で頭を悩ませる必要もない。
私はメニューを閉じたタイミングでテーブルにやって来た店員に、日替わりランチを注文してから、斜め向かいの席へ向けてお礼を伝える。
「ありがとうございます。もう何を頼んでいいのか、さっぱり分からなかったので助かりました」
「ここ、ドリンクメニュー以外、ほぼ謎かけですよね。森が付くとキノコ系で、海だとシーフードってのは分かるんですが」
たまに来るという彼はすでに料理名の解読は諦めて、もっぱら日替わり一択だと言って笑っていた。でも、何が出て来ても外れには当たったことはないらしい。
初対面の親切な彼のおかげで無事にカルボナーラのセットにありつけた私は、隣のテーブルの人が『川のせせらぎに耳を傾けながら香る新緑のパスタ』を注文し、ほどなくしてサーモンとほうれん草のクリームパスタが運ばれて来たのに気付く。
同じことを考えたのか、テーブルに少し身を乗り出した恭平が小声で私に囁いてきた。
「どうやら川はサーモンのことみたいですね」
「で、新緑はほうれん草でしたね!」
コソコソと隣に聞こえないよう確認してから、私達は声を出さずに笑い合った。
「おはよう。気を付けて」
ライトグレーのシャツの襟元にネクタイを結びながら、恭平が爽やかな笑顔で私と綾斗に向かって手を振ってくる。恭平は仕事の関係か毎日このアパートへ帰ってきているわけではないみたいだったけれど、部屋にいる時は私達が出掛けるのに合わせて外に顔を出して見送ってくれる。
「いってきまーす」
「ああ、いってらっしゃい」
最初の頃は人見知りで照れて黙っていた綾斗も、頻繁に顔を合わせるようになった彼に対して慣れてきたのか、元気よく挨拶を返すようになった。
きっとまだ隣の部屋に住んでる人くらいにしか思っていないのだろうが、それでも恭平は嬉しそうに笑っていた。
駐輪場で息子にヘルメットを被せてからママチャリの後ろに乗せながら、二階の廊下から自分の部屋へと戻っていく恭平のことを視界の隅で確認する。
彼が何を考えているのか、さっぱり分からない。社長になって仕事も以前よりずっと忙しくなっていそうなのに、会社から随分と遠いこんな場所に住もうとするだなんて。確か彼は本社ビルの近くにマンションを保有していたはずで、そっちにいる方が比べ物にならないくらい便利なはずなのに。
「ママ?」
「あ、ごめんっ……じゃあ、行こっか」
考え事をしてぼーっとしてしまった私のことを、綾斗が心配そうに顔を覗き込んでくる。チャイルドシートのベルトを息子のお腹の前でパチンと留めて、私はママチャリに跨ってからゆっくりと漕ぎ始めた。
私と恭平との出会いは、私が短大を卒業してすぐに勤めていた会社近くにある喫茶店。
それなりに大きいオフィス街だったから駅前の飲食店はランチの時間帯になるとどこもいっぱいだし、コンビニもいつも争奪戦状態になる。
節約も兼ねて普段はお弁当を作って来てデスクで食べるようにしていたけれど、その日は寝坊して間に合わず、私は以前から気になっていた裏通りにあるレトロな喫茶店を覗いた。
カランコロンと扉上部のベルが音を立てるのを聞きながら店内を見回してみると、等間隔で設置された木目調のテーブルはほとんど埋まっていた。
「申し訳ございません。只今、満席でして、もし相席でよろしければ……」
「あ、構いません」
店名入りのエプロンを着けた店員が、四人掛けテーブルに一人で座っていた男性客へと相席の確認しに向かう。声を掛けられた男性は頷き返しながらテーブルの上に広げていた書類を片付けるとビジネスバッグの中へしまい込んでいた。
「大変お待たせ致しました。お席へご案内いたします」
すぐに戻ってきた店員に誘導されて、私は男性客の斜め向かいに座る。そのたまたま相席になったビジネスマン風のスーツを着た人が恭平だ。
完全に初対面だったけれど、真正面の席というわけでもなかったからその時は軽く会釈を交わし合っただけだった。
テーブルに立て掛けられていたメニューのページを捲り始めて、私は心の底からかなり焦り出す。
店内のレトロな雰囲気そのままに、こだわりの詰まったメニュー。コーヒーの種類だけでも大量にあり、ソフトドリンクと合わせただけで三ページにも渡って並んでいる。
私はずらりと記載された食事メニューを眺めながら眉を寄せた。
「森の古株に座って見上げる木漏れ日のパスタ、って何? どういうこと……?」
拘りの料理名なのか、とにかくメニューを見ただけでは何の料理なのか分かり辛い。店に詩人か何かがいるんだろうか?
写真を見る限り、おそらくはキノコのクリームパスタっぽいが。特に写真の無い料理は料理名だけでは判別が難しい。
初めて入ったお店だから何を注文すればいいか分からず、私はメニューと睨めっこしながら唸っていた。相席まで用意してもらったけれど、今すぐにでも席を立って店を出たい気分だ。
すると、斜め向かいから笑い噛みしめた声で男性客が話し掛けてくる。
「もし苦手な物が無ければ、一番最後のページに日替わりのパスタランチが載ってるから、とりあえずそれを注文すれば間違いないです。今日のパスタはカルボナーラみたいですよ」
言われてメニューを閉じてひっくり返すと、彼の言った通りに十四時まで限定の日替わりメニューがあった。ドリンクとサラダ付きで普通にパスタを単品で頼むよりもお得な上に、理解不能な料理名で頭を悩ませる必要もない。
私はメニューを閉じたタイミングでテーブルにやって来た店員に、日替わりランチを注文してから、斜め向かいの席へ向けてお礼を伝える。
「ありがとうございます。もう何を頼んでいいのか、さっぱり分からなかったので助かりました」
「ここ、ドリンクメニュー以外、ほぼ謎かけですよね。森が付くとキノコ系で、海だとシーフードってのは分かるんですが」
たまに来るという彼はすでに料理名の解読は諦めて、もっぱら日替わり一択だと言って笑っていた。でも、何が出て来ても外れには当たったことはないらしい。
初対面の親切な彼のおかげで無事にカルボナーラのセットにありつけた私は、隣のテーブルの人が『川のせせらぎに耳を傾けながら香る新緑のパスタ』を注文し、ほどなくしてサーモンとほうれん草のクリームパスタが運ばれて来たのに気付く。
同じことを考えたのか、テーブルに少し身を乗り出した恭平が小声で私に囁いてきた。
「どうやら川はサーモンのことみたいですね」
「で、新緑はほうれん草でしたね!」
コソコソと隣に聞こえないよう確認してから、私達は声を出さずに笑い合った。