シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです

第七話

 そのメニューの解読が難しい喫茶店の日替わりランチは、彼が言っていた通りに外れが全くなくて何を食べても美味しかった。すっかりお気に入りの店になり、私はお弁当が作れなかった日には必ず食べに行くようになった。
 そして、たまに顔を合わせる恭平とは、いつしか店員に勧められなくても相席するようになった。最初の頃はメニューの料理名の解読が中心だったお喋りが、いつしかプライベートなことへと変わり、私達の距離はぐっと近づいていった。
 それまで持て余していた昼の休憩時間が一気に短く感じるようになったのもこの頃だ。

 彼が大会社の御曹司だと知ったのは、互いに完全に惹かれ合った後だったと思う。恭平が望月コーポレーションに勤めているというのは早い段階で教えてもらっていたけれど、まさか二十代の若さで専務取締役で、御曹司だとは思ってもみなかった。きっともっと先に知っていたら、深入りしないよう距離を置こうとしていたはずだ。
 片親で決して裕福とはいえない家庭に育った私と彼とでは不釣り合いだと思ってしまうから。

「家のことは関係ない。小春と一緒にいたいから傍にいるだけだ」

 優しい恭平はいつもそう言って、彼との釣り合いを気にする私のことをはっきりと否定してくれていた。俺は自分の相手は自分で決める、と。
 不安は常に付きまとってはいたけれど、彼の傍にいることに心地良さと安心感を覚えて、私は何でも包み込んでくれる穏やかな彼と一緒にいることに幸せを感じていた。ずっと傍にいたいと思っていたのは嘘じゃない。

 出会ってから二年が過ぎようとしていた時、仕事からの帰宅途中で私は自分の体調がおかしなことに気付いてドラッグストアに駆け込む。朝起きた時からずっと乗り物酔いしているみたいな、フワフワした気分が続いていたのだ。
 帰宅してすぐに使用した妊娠検査薬ははっきりとした陽性ラインを示した。元々不順気味だったから、生理が最後に来たのがいつだったかすぐには思い出せない。

 決して身に覚えがなかったわけじゃない。でも、私は一人で考え込んでいてもどうしていいかが分からず、直接相談するつもりで望月コーポレーションの本社近くまで訪れた。
 建物が見える場所で、彼に連絡を取ろうとスマホをバッグから取り出す。着信履歴に残っていた彼の名前をタップしようとした時、ビルの中からスーツ姿の二人の女性が出てきて、私は道を譲るために歩道の方へ少し避けた。その際、彼女達の会話の一部が耳に飛び込んできて、その場で硬直してしまった。

「そう言えば、聞いた? 望月専務のお見合いの話」
「あ、聞いた聞いた。佐竹建設のお嬢さんとでしょう? 営業部長がめちゃくちゃ押したっていうじゃない。あそこの会社と繋がれば大きいもんねぇ」
「でもショック……私、密かに専務のこと狙ってたのにぃ」
「えー、次期社長夫人ってこと? 狙ってたの、他にもいっぱいいそうだよね」

 興奮気味な二人は周囲に丸聞こえなのなんてお構いなしでお喋りを続けながら駅のある方向へと立ち去っていく。
 私は恭平に会って妊娠のことを相談するつもりだったのに、スマホを操作する指先の動きを止めた。

 ――恭平がお見合い……?

 彼のことを信じていないわけじゃない。でも、彼を取り巻く環境には抗えない。私は自分の存在が彼にとって足手まといになってしまうと考え、お腹に彼との子供を宿したことを告げることなく恭平の前から姿を消すことを決めた。ただ、彼の負担にはなりたくはないという一心で。

 私が成人してすぐに母は亡くなっていたから祖母のところへ身を寄せて、スマホの番号はすぐに変更した。だから、恭平が私があの街からいなくなったことにいつ気付いたのかは分からない。共通の知り合いはほとんどいなかったから、その後の彼がどうしていたかなんて風の噂にも聞くことはなかった。

 私が妊娠を打ち明けると驚いてはいたが、祖母が私の産む決断を反対することはなかった。祖母に助けてもらいながら産んだ綾斗はとても元気な男の子で、目元と耳の形が恭平にそっくりだった。
 息子を見る度に彼のことを何度となく思い出したが、恭平のところから逃げ出したのは私の方で、今更会いに行けるはずもなかった。黙って子供を産んだことで、さらに彼を困らせてしまうのは目に見えている。もしあの時、私がちゃんと伝えていたら、彼はどんな反応をしただろうか。

 だから、彼が息子へと向ける目がとても優しいことに気付いた時、私はとても安堵した。少なくとも恭平は綾斗の存在を疎ましくは思っていないのは十分に分かった。勝手に産んで欲しくはなかったと言われたら、私だけじゃなく綾斗自身が大きく傷付いてしまっていただろう。

 決して子供慣れしているとは思えない恭平が、不器用ながらも綾斗に話し掛けて距離を縮めようとしている姿を見る度、私はあの時どうするべきだったのかが分からなくなる。
 初めの頃は人見知りして自分から近付いていくことはなかった綾斗も、少しずつ慣れてきたのか恭平の顔を見ると手を振ったりするようになってきた。恭平はパパと呼んで欲しいみたいだけれど、今のところはまだ一度も呼んだことはない。
< 7 / 38 >

この作品をシェア

pagetop