月が青く染まる夜に
「…あのさ、迅和くんって、佐藤なんだね」

「え?あ、はい」

想定外のことを言われたからか、少しだけ眉を上げた。

「じゃあどうして私のことは“佐藤さん”なの?」


深い意味で聞いたわけではない。
周りの人たちが下の名前で呼んでくれるからこその、小さな疑問。

彼はふと悩んだのか眉を寄せて、首をかしげた。

「特に…理由はないですけど」

「紛らわしいから、名前で呼んでもらえる?」

「えっ…でも、僕、中途ですし」

「上司も先輩も、同期も、後輩の子たちも。みんな名前呼びだもん。迅和くんだけ違うのは変じゃない?」


わざと意地悪に聞こえるように言い放ったのは、確信犯。そう言えば彼は断れないだろうと踏んだのだ。
そしてそれは当たっていて、とても困ったような顔で曖昧にうなずくのだった。

「うーん、まあ、お望みなら…」

「その仕方ないなあって顔、やめてよ」

「馴れ馴れしいかと思って」

「気にしないよ」


この一週間で、こんなに彼と会話したことなどいまだかつてあっただろうか。
いや、絶対にない。
だからこそ、目の前の彼はこんな表情なのだろう。


そんな私たちのやり取りを遠くから見ていたであろう、真奈美さんがなにかを言いたげにこちらに視線を送っているのが見えた。

自分のデスクへ戻った私に、彼女はイスごと私の元へスライドするように移動してきて耳打ちしてきた。


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