月が青く染まる夜に
遠くで、誰かの笑い声。
はっとして私の頭が現実に戻った。

なんてところで、キスしてしまったんだ。

「…誰か来るかも」

慌ててかごバッグを拾って小さく言うと、迅和くんは一瞬だけ視線を外して、それから私の手を取った。

その流れは、自然に。当たり前みたいだった。

指が絡む。
ぎゅ、と握り返した。

「頑張らせて、ごめんね」

低い声に濃縮された、少しだけ熱を含んでいる言葉。
でもすべて吹き飛ぶくらいの、今さっきの出来事。

うん、と返すだけで、今はよかった。


ふたりで歩き出す。
濡れた足にサンダルで、石畳の道を戻る。

遠くから聞こえていた笑い声は、やはり足湯へ向かう若者たちの声だった。
私たちとすれ違う。

浴衣の裾が揺れる。その裾は、足湯のせいで濡れて冷たくなっていた。
白い息を吐きながら、私たちは近づいてくる宿を灯りを頼りに手を繋いで歩いた。


翠渓の夜は静か。
でも、胸の中はうるさいくらいだ。

誰かに見られたらどうしよう、という緊張と、それでも離したくないという気持ちがせめぎ合って、綱引きする。

でも、手は離れない。
さっきまで同僚だった二人が、今はもう、少しだけ違う。


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