2Kの君~終電帰りの限界OL、2Kの扉を開けたら異世界騎士の部屋でした
もしかしたら――、と心のどこかで思いながら、凛子は、女が手渡してくれたブランデーに似た香りをさせるホットミルクのような物に口を付ける。
じんわりと伝う暖かさは夢ではなく、極度の寒さで凍ってしまっていた思考がゆっくりと溶け出す。
薪ストーブの炎を眺め、凛子は顔をあげた。
どうやら自分が飛び込んだ建物は、飲食店のようなところらしい。
古い、けれども清潔な板張りの床に素朴な風合いのテーブルと椅子が何組か置かれてあり、カウンター後ろの壁面には見たことの無いような色形をした瓶が並んでいる。
作業をしていた女……女主人は、カランと来客を告げる鐘の音に顔をあげ、にこやかに笑った。凛子は横目でそれを見る。カウンター越しの足の長い丸いすに腰掛た客人は、雪避けのフードがついた防寒服を脱いで横に置くと、女主人に何かを告げた。
覗かせた青錆色の髪に凛子は目を見張る。男が出されたゴブレットに口付ける様子から、やはり飲食店なのだ、と凛子は結論付けた。
青錆色の髪が物珍しく、聞き覚えの無い言葉で会話する二人にチラチラ視線をやっていると、揃って自分に視線を返した為、凛子は傍目にも判るほどはっきりと体を揺らす。
同様に視線の合った青錆色の髪をした男も、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに親しげに微笑んだ。
こちらへと向かってくる男は、想像よりも若い。
寝癖なのか、それともファッションなのか、癖毛風のやや長めの髪は顎あたりまである。
虹彩は茶色で若干垂れ目気味。
こげ茶の衣は膝丈で、腰にゆるくベルトが巻かれている。
上着よりやや薄めのパンツに濃灰色の編み上げ靴。
地味な色重ねだが、貧乏臭く見えないのは、動作が綺麗だからだろうか。
姿勢が良い。
男は、椅子を引いて凛子の向かいに座った。
にこにこと笑いながら、声を掛けて来るが、やはりひとつとして理解できない。
カップを両手で握りこんで、凛子は「ううう、何言ってるのかわからない……」と唸る。
その声に、男は一瞬だけ警戒の色を浮かべ凛子を見るがほどなくして緊張を解くと、首を傾げながら何かを言った。
だめだ降参だ。意思疎通がまったくはかれない。
諦めて首を横に降る凛子に、男は一言二言女主人に告げ、それから凛子に右手を差し出した。
握手を求められているのかと思いのろのろと応じると、男は満足したように頷いた。
得体の知れぬ女に対して、どんな興味を抱いたのか、男は凛子に再び話しかける。
だから判らないんだよと冷や汗を流しながら、諦めることなく話し続ける男に、凛子は愛想笑いを返す。
状況的に悪いかの判断さえつかないのだ。
困り果てている凛子の助けとなるべく、木の椀が二つことりと置かれた。
女主人が、何か言いながらスプーンを口に運ぶ仕草をする。
ボディランゲージは共通らしく「食べろ」もしくは「飲め」と言っているようだ。
そして女主人が続けた言葉の中で、なんとなくひっかりのある単語に凛子は、はっと顔をあげた。
「ベレ?」
突然言葉を発した凛子に、女主人はやや目を見開いたが、大きく頷くと「ベレーの煮込みだよ、体が暖まるからお食べ」と答えた。当然、細かな内容は通じないのだが、凛子は椀を指差してもう一度「ベレー?」と聞いた。女主人は肯定するように頷くと、気の毒そうに男に言う。
「おかしな娘さんだね。奇妙ななりをしているけれど、持ち物も上質そうだし。……やっぱり厄介ごとにでも巻き込まれたかねえエイゼル」
エイゼルと呼ばれた男は、椀の中身を口に運び「わ……ソーセージだ……。確か……豚がベレーだっけ? ベレー」と、まったく聞きなれない言葉を感動したように繰り返す娘を観察していた。
「ベレー、ベレー、ってよっぽどお腹がすいていたのか、もっと早く出してやれば良かったよ」と、女主人はいまや同情的な態度で凛子の頭を撫でる。
頭を撫でられた凛子は一瞬だけきょとんと顔をあげ、もう一度確認するように「ベレー?」と破顔した。女主人はついに泣き出しそうな顔で、前掛けを眦までひっぱりあげ何度も頷いた。
それほど空腹では無かったのに、凛子は椀の中身を平らげてしまった。
ミネストローネのような風味のスープだ。
ベレーを原材料とするらしきソーセージと一緒に煮込まれているのは根菜類。
たったひとつの単語が、答えを導き出す。
ここは、自分の知らない、けれど話は聞いたことのある世界なのだ。
異なる世界。異なる理にある世界。
その大陸には五つの国があって、魔法やら魔術やらがあって、
「ア……アゼえラス?」
幼子が始めて口にする言葉のようなたどたどしい発音だった。
色持ちの娘を観察していた男――エイゼルは、娘の言葉を訂正するように、ゆっくりと発音する。
「アゼリアスだよ。ここはアゼリアス聖王国」
「アゼいラス!」
「…………」
微妙に違うのだが、どうやら娘は心当たりがあるらしい。
驚くことに、続けて告げられた「しャール?」はイリス神の眷属が振う剣に嵌めこまれた珠のひとつ。
蒼水晶の古語シャアルだろう。
娘はこちらを伺うようにして「アゼいラス、しャール、ベレー……ザ……ザラサぃ」と、何故か最後は夏野菜で言葉を締めくくった。
それしか物をしらないように再び四つの単語を並べ、シュロス亭の女主人の「ザラサィが好きなのかい? 今は冬場だからねえ」という呟きに、納得したように「ザラサぃ」と返し、神妙な顔つきをした。
「うーん、困ったな。どっから来たんだろ」
「最初は耳が不自由なのかと思ったんだよ。身なりの良い娘さんだし。ここは王都の貴族様もお忍びで療養に来るだろう?」
国名はあやふやな割りに、庶民が触れる機会のあまりない古語をあげ、貴族の娘が好んで口にしなさそうな市井の食べ物――ベレーの腸詰煮込みを味わう姿は、実に奇妙である。
女主人が「事情ありそうな色持ちの娘が飛び込んで来てね」と示した娘は、見事な黒髪と漆黒の瞳をしていた。エイゼルの問いに答えず、口を噤み困惑したように微笑む娘が、呪いにでもかけられたのかと探ってみたのだが、魔力に捩れは無い。
「名前、なんていうの? 名前」
訊ねられて、娘は困ったように首を傾げる。
「俺はね、エイゼル。エイゼル・アンレイ」
とんとん、親指で胸を示す。
合点が言ったのか、奇妙な娘は同じ仕草で自分を指し
「リィン」
そう答えた。
じんわりと伝う暖かさは夢ではなく、極度の寒さで凍ってしまっていた思考がゆっくりと溶け出す。
薪ストーブの炎を眺め、凛子は顔をあげた。
どうやら自分が飛び込んだ建物は、飲食店のようなところらしい。
古い、けれども清潔な板張りの床に素朴な風合いのテーブルと椅子が何組か置かれてあり、カウンター後ろの壁面には見たことの無いような色形をした瓶が並んでいる。
作業をしていた女……女主人は、カランと来客を告げる鐘の音に顔をあげ、にこやかに笑った。凛子は横目でそれを見る。カウンター越しの足の長い丸いすに腰掛た客人は、雪避けのフードがついた防寒服を脱いで横に置くと、女主人に何かを告げた。
覗かせた青錆色の髪に凛子は目を見張る。男が出されたゴブレットに口付ける様子から、やはり飲食店なのだ、と凛子は結論付けた。
青錆色の髪が物珍しく、聞き覚えの無い言葉で会話する二人にチラチラ視線をやっていると、揃って自分に視線を返した為、凛子は傍目にも判るほどはっきりと体を揺らす。
同様に視線の合った青錆色の髪をした男も、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに親しげに微笑んだ。
こちらへと向かってくる男は、想像よりも若い。
寝癖なのか、それともファッションなのか、癖毛風のやや長めの髪は顎あたりまである。
虹彩は茶色で若干垂れ目気味。
こげ茶の衣は膝丈で、腰にゆるくベルトが巻かれている。
上着よりやや薄めのパンツに濃灰色の編み上げ靴。
地味な色重ねだが、貧乏臭く見えないのは、動作が綺麗だからだろうか。
姿勢が良い。
男は、椅子を引いて凛子の向かいに座った。
にこにこと笑いながら、声を掛けて来るが、やはりひとつとして理解できない。
カップを両手で握りこんで、凛子は「ううう、何言ってるのかわからない……」と唸る。
その声に、男は一瞬だけ警戒の色を浮かべ凛子を見るがほどなくして緊張を解くと、首を傾げながら何かを言った。
だめだ降参だ。意思疎通がまったくはかれない。
諦めて首を横に降る凛子に、男は一言二言女主人に告げ、それから凛子に右手を差し出した。
握手を求められているのかと思いのろのろと応じると、男は満足したように頷いた。
得体の知れぬ女に対して、どんな興味を抱いたのか、男は凛子に再び話しかける。
だから判らないんだよと冷や汗を流しながら、諦めることなく話し続ける男に、凛子は愛想笑いを返す。
状況的に悪いかの判断さえつかないのだ。
困り果てている凛子の助けとなるべく、木の椀が二つことりと置かれた。
女主人が、何か言いながらスプーンを口に運ぶ仕草をする。
ボディランゲージは共通らしく「食べろ」もしくは「飲め」と言っているようだ。
そして女主人が続けた言葉の中で、なんとなくひっかりのある単語に凛子は、はっと顔をあげた。
「ベレ?」
突然言葉を発した凛子に、女主人はやや目を見開いたが、大きく頷くと「ベレーの煮込みだよ、体が暖まるからお食べ」と答えた。当然、細かな内容は通じないのだが、凛子は椀を指差してもう一度「ベレー?」と聞いた。女主人は肯定するように頷くと、気の毒そうに男に言う。
「おかしな娘さんだね。奇妙ななりをしているけれど、持ち物も上質そうだし。……やっぱり厄介ごとにでも巻き込まれたかねえエイゼル」
エイゼルと呼ばれた男は、椀の中身を口に運び「わ……ソーセージだ……。確か……豚がベレーだっけ? ベレー」と、まったく聞きなれない言葉を感動したように繰り返す娘を観察していた。
「ベレー、ベレー、ってよっぽどお腹がすいていたのか、もっと早く出してやれば良かったよ」と、女主人はいまや同情的な態度で凛子の頭を撫でる。
頭を撫でられた凛子は一瞬だけきょとんと顔をあげ、もう一度確認するように「ベレー?」と破顔した。女主人はついに泣き出しそうな顔で、前掛けを眦までひっぱりあげ何度も頷いた。
それほど空腹では無かったのに、凛子は椀の中身を平らげてしまった。
ミネストローネのような風味のスープだ。
ベレーを原材料とするらしきソーセージと一緒に煮込まれているのは根菜類。
たったひとつの単語が、答えを導き出す。
ここは、自分の知らない、けれど話は聞いたことのある世界なのだ。
異なる世界。異なる理にある世界。
その大陸には五つの国があって、魔法やら魔術やらがあって、
「ア……アゼえラス?」
幼子が始めて口にする言葉のようなたどたどしい発音だった。
色持ちの娘を観察していた男――エイゼルは、娘の言葉を訂正するように、ゆっくりと発音する。
「アゼリアスだよ。ここはアゼリアス聖王国」
「アゼいラス!」
「…………」
微妙に違うのだが、どうやら娘は心当たりがあるらしい。
驚くことに、続けて告げられた「しャール?」はイリス神の眷属が振う剣に嵌めこまれた珠のひとつ。
蒼水晶の古語シャアルだろう。
娘はこちらを伺うようにして「アゼいラス、しャール、ベレー……ザ……ザラサぃ」と、何故か最後は夏野菜で言葉を締めくくった。
それしか物をしらないように再び四つの単語を並べ、シュロス亭の女主人の「ザラサィが好きなのかい? 今は冬場だからねえ」という呟きに、納得したように「ザラサぃ」と返し、神妙な顔つきをした。
「うーん、困ったな。どっから来たんだろ」
「最初は耳が不自由なのかと思ったんだよ。身なりの良い娘さんだし。ここは王都の貴族様もお忍びで療養に来るだろう?」
国名はあやふやな割りに、庶民が触れる機会のあまりない古語をあげ、貴族の娘が好んで口にしなさそうな市井の食べ物――ベレーの腸詰煮込みを味わう姿は、実に奇妙である。
女主人が「事情ありそうな色持ちの娘が飛び込んで来てね」と示した娘は、見事な黒髪と漆黒の瞳をしていた。エイゼルの問いに答えず、口を噤み困惑したように微笑む娘が、呪いにでもかけられたのかと探ってみたのだが、魔力に捩れは無い。
「名前、なんていうの? 名前」
訊ねられて、娘は困ったように首を傾げる。
「俺はね、エイゼル。エイゼル・アンレイ」
とんとん、親指で胸を示す。
合点が言ったのか、奇妙な娘は同じ仕草で自分を指し
「リィン」
そう答えた。