2Kの君~終電帰りの限界OL、2Kの扉を開けたら異世界騎士の部屋でした
硫黄に似た匂いの中、凛子は緊張を解きほぐすよう、うん、と背中を伸ばし、頭を浴槽のふちに預ける。
雪嵐はおさまったようで、大きく切り取られた窓外には静かな夜が広がっていた。
そっと忍びこむ雪あかりは、想像以上に明るい。
半分露天になっているような浴場は四畳ほどの広さで、裏庭に面している。
立ち上がって背を伸ばさない限り、目隠しも兼ねている防風の立ち木向こうからは、伺えないだろう。
寒さに震え飛び込んだ建物は、酒場と宿屋を兼ねているようだった。
女主人――リラと、青錆色の髪をした男――エイゼルとの、会話ともいえない会話から、自分がいったい何処にいるのかを確信した。
アゼリアス。
繋がった扉によって、あの週末だけルームシェアした男が、ぽつぽつと語った母国についての話。
魔法があって魔術があって、賢者が居て、戦争もおこるかもしれない、凛子の世界と理の違う、異世界。
まさか自分が、世界を跨いでしまうなんて。
しかも運がいいのか、エイゼルという男はシャールを知っているらしい。
とりあえずシャールに会って相談してみよう。と、この時の凛子はあくまでも暢気に考えていた。
十分に体を暖め湯からあがる。
鏡に映る頬は上気している。どこの世界にあっても変わらない自分の顔に安堵した。
麻に似た材質の布で髪の水気を拭き取り、脱いだ衣服を手にする。
少しだけ考えて、浴室で下着を洗ってしまうと、布に包んだ。
一日もあれば乾きそうだ。
浴場から母屋へと続く飛び石を渡り、途中で足が自然に止まった。
横殴りに吹き付けていた雪は、風がやんだおかげで、今は静かにただ、しんしんと降り積もる。
雪の街に、三角屋根の家並みが、影を落とし、ひとつひとつで誰かが生活しているのかと思うと、不思議な感覚がする。
誰にも知られぬ誰も知らぬ
そう、この世界は凛子を誰も知らない場所なのだ。
そして話でしか知る術が無かった場所だ。
そんな夢の世界に自身の足で立ち、雪の感触を確かめ、冷たい大気を吸い込んでいる。
広がる光景を目に焼き付けるようにながめると、凛子は小さな声をあげて笑った。
◇◇◇
「リィン」
廊下の奥から声を掛けられ階段を上がりかけていた凛子が振り返ると、エイゼルが手招きしている。
さそわれるように、近づくと「サケ?」と悪戯っぽく微笑まれる。
単純にもパァアアと喜色満面の笑みを浮かべてしまった凛子はふと我にかえった。
もしかしたら自分はアル中に近いのではないだろうか。
このようなところに来てまで、風呂上りにアルコールを求めるなんて。
しかし風呂上りの体は素直なもので、水分に飢えていた。
何かで喉を潤したい。
できればビール。
なければスパークリングワイン。
凛子が思い浮かべたのはどちらにせよアルコールだった。
エイゼルがカウンターの椅子を引く。
店内はそれほど混んでいるわけではない。
夕飯の時刻には遅いようで、エイゼルににた格好をした何人かが、ゴブレットを片手に談笑している。
旅人、だろうか。
テーブルの横に立てかけてある大剣に冒険者かもしれない、と少女時代に読んだ物語の中から、単語を拾い上げる。
賢者がいるなら冒険者がいてもおかしくない。
古今東西に語り継がれるファンタジー物語の、代名詞だ。
「よく飲むねえ」
四杯目のゴブレットを凛子に渡し、リラは呆れたような顔をする。
「チェザレ酒だよ」
エイゼルの言葉に、凛子は琥珀色の液体をぺろりと舐める。
まろやかな風味で、鼻に残る香ばしいかおりは、醸造酒のそれに似ている。
アルコール分は先ほど飲んだ醗酵酒系のズァッヘンよりもやや強い。ウィスキー系かな、と凛子は頭の辞書に単語を付け加えた。
「オいシい」
凛子は満足そうな顔をして、次の瓶を指差しながら首を傾げた。
実は先ほどエイゼルが言った「サケ」という言葉は日本語の「酒」である。
カウンター裏に並ぶ瓶を指して、何度もあれってお酒?とリラに訊ね、とまどう女主人が中身を少しだけ小皿に落として凛子に渡した事が、切欠だった。
エイゼルが飲んでいた物も酒の種類で「ラエム」凛子が最初に渡されたミルクに入っていた物は「ルッカラ」というブランデー系。利き酒のように、並んでいる瓶の中身を確認し、凛子はこの世界の単語をいくつか覚えた
――凡て酒の名前だが。
因みに何を飲んでも「わああこれもお酒だー」と喜んでいた凛子に、エイゼルが「サケ?」と問い、ワールドワイドを超えた呑ミニケーションが成立したのである。
明けて翌朝。
ザルを通り越してワクである凛子の胃腸および肝臓は、二日酔いという言葉を未だに知らない。
パンとスープと卵料理らしき朝食を済ませると、エイゼルが女主人に何かを告げた。
店の奥にひっこんだリラが足首まである防寒着を持ってき、それを凛子に着付ける。促されるまま店の外へ出ると、エイゼルが凛子の頭にフードをばさりと被せた。
はらはら舞い散る雪は止む気配が無い。
街の光景は物珍しく、凛子は興味深げに左右に視線を配りつつ、エイゼルに並び歩いていた。
石畳が続き、木造の家々が路の両側に立ち並んでいる。この付近は商家が多いのか、看板に何の商いをしているかを指す、イラストのような物が板看板に彫られている。
お世話になっている宿は、酒瓶と杯らしきものが描かれている看板が下がっていた。
剣と盾。
鍵モチーフの意匠。
コインが二つ並んでいる物。
酒瓶だけが描かれている物と、あの宿のものとの違いは不明だ。
隣を歩いていたエイゼルがすっと腕を上げて前を指し示した。
昨日も白い世界に薄っすらと見えた尖塔である。
近づくと三つの尖塔をもつカテドラルのような建物が、開けた広場に面していた。
街の木造家屋とは違い、石造りの重厚な建造物で、左右対称に配置されてある尖塔の間に聖堂らしき建造物があり、裏手に一際高い尖塔が聳えている。
石段をあがり両開きの扉を押して中に入ると、中央奥には祭壇がある。
高い天井の両脇と祭壇後部にはステンドグラスが配置され、神聖かつ静謐な静けさが広がっていた。
両側に配置されてある長椅子はまばらに人が座っている。
手を組み祈っている姿は、あちらの世界と差異が無いような気がした。
中央の通路を歩き祭壇へと近寄ってみる。司祭らしき人物はそこには居らず、右手を天に向かって伸ばしている白い石造が祭壇の後ろに設置されてある。
白い神像の左手に、狼に似た黒い獣の像。
口には剣をくわえており、利口そうな顔つきで神像を見上げていた。
獣の像の方に近寄り、エイゼルが剣の柄あたりを指差した。
五つの石がはめ込まれている。
上からトパーズ、真珠、サファイヤ、エメラルド、オニキスといった具合で、なかなか高価そうだ。
そのうち真ん中の青を指しながら「シャアル」と、発した。
「しャール?」
「そう、これがシャアル。 蒼水晶は古語でシャアルというから」
「ん? しャール?」
「そう、シャアル」
エイゼルは青い石を指差しながら頷く。
「えっと……もしかして……それをシャールって言うの、かな……?」
嫌な予感を覚えながら疑問を口にすると、エイゼルは「そうだよ」とでも言うように、またシャアルと繰り返した。
思わず頭を抱えてしゃがみ込む。
よくよく考えるとありえない話じゃない。
凛子の凛ひとつとっても、発音だけなら意味が分かれる。
凛としたの凛。風鈴の鈴。隣人の隣。竜胆の竜。
それを前提とすると、ここでのシャールも名前とは限らない。
恐らくサファイヤに似た石をシャールというのだ。
「シャール、シャール……シャ……シュール? 違うな……シェリー……はお酒だし……しゅりえる……しゅれいる……駄目だ忘れた……メモっとけば良かった……」
シャールに会えればどうにかなるでしょ、と安易に考えていたのだが、会うどころの話ではない。
言葉も通じない異世界で、シャールを探す事なんて出来るのだろうか。
一気に途方にくれ、凛子は絶望を背負い肩を落とした。
雪嵐はおさまったようで、大きく切り取られた窓外には静かな夜が広がっていた。
そっと忍びこむ雪あかりは、想像以上に明るい。
半分露天になっているような浴場は四畳ほどの広さで、裏庭に面している。
立ち上がって背を伸ばさない限り、目隠しも兼ねている防風の立ち木向こうからは、伺えないだろう。
寒さに震え飛び込んだ建物は、酒場と宿屋を兼ねているようだった。
女主人――リラと、青錆色の髪をした男――エイゼルとの、会話ともいえない会話から、自分がいったい何処にいるのかを確信した。
アゼリアス。
繋がった扉によって、あの週末だけルームシェアした男が、ぽつぽつと語った母国についての話。
魔法があって魔術があって、賢者が居て、戦争もおこるかもしれない、凛子の世界と理の違う、異世界。
まさか自分が、世界を跨いでしまうなんて。
しかも運がいいのか、エイゼルという男はシャールを知っているらしい。
とりあえずシャールに会って相談してみよう。と、この時の凛子はあくまでも暢気に考えていた。
十分に体を暖め湯からあがる。
鏡に映る頬は上気している。どこの世界にあっても変わらない自分の顔に安堵した。
麻に似た材質の布で髪の水気を拭き取り、脱いだ衣服を手にする。
少しだけ考えて、浴室で下着を洗ってしまうと、布に包んだ。
一日もあれば乾きそうだ。
浴場から母屋へと続く飛び石を渡り、途中で足が自然に止まった。
横殴りに吹き付けていた雪は、風がやんだおかげで、今は静かにただ、しんしんと降り積もる。
雪の街に、三角屋根の家並みが、影を落とし、ひとつひとつで誰かが生活しているのかと思うと、不思議な感覚がする。
誰にも知られぬ誰も知らぬ
そう、この世界は凛子を誰も知らない場所なのだ。
そして話でしか知る術が無かった場所だ。
そんな夢の世界に自身の足で立ち、雪の感触を確かめ、冷たい大気を吸い込んでいる。
広がる光景を目に焼き付けるようにながめると、凛子は小さな声をあげて笑った。
◇◇◇
「リィン」
廊下の奥から声を掛けられ階段を上がりかけていた凛子が振り返ると、エイゼルが手招きしている。
さそわれるように、近づくと「サケ?」と悪戯っぽく微笑まれる。
単純にもパァアアと喜色満面の笑みを浮かべてしまった凛子はふと我にかえった。
もしかしたら自分はアル中に近いのではないだろうか。
このようなところに来てまで、風呂上りにアルコールを求めるなんて。
しかし風呂上りの体は素直なもので、水分に飢えていた。
何かで喉を潤したい。
できればビール。
なければスパークリングワイン。
凛子が思い浮かべたのはどちらにせよアルコールだった。
エイゼルがカウンターの椅子を引く。
店内はそれほど混んでいるわけではない。
夕飯の時刻には遅いようで、エイゼルににた格好をした何人かが、ゴブレットを片手に談笑している。
旅人、だろうか。
テーブルの横に立てかけてある大剣に冒険者かもしれない、と少女時代に読んだ物語の中から、単語を拾い上げる。
賢者がいるなら冒険者がいてもおかしくない。
古今東西に語り継がれるファンタジー物語の、代名詞だ。
「よく飲むねえ」
四杯目のゴブレットを凛子に渡し、リラは呆れたような顔をする。
「チェザレ酒だよ」
エイゼルの言葉に、凛子は琥珀色の液体をぺろりと舐める。
まろやかな風味で、鼻に残る香ばしいかおりは、醸造酒のそれに似ている。
アルコール分は先ほど飲んだ醗酵酒系のズァッヘンよりもやや強い。ウィスキー系かな、と凛子は頭の辞書に単語を付け加えた。
「オいシい」
凛子は満足そうな顔をして、次の瓶を指差しながら首を傾げた。
実は先ほどエイゼルが言った「サケ」という言葉は日本語の「酒」である。
カウンター裏に並ぶ瓶を指して、何度もあれってお酒?とリラに訊ね、とまどう女主人が中身を少しだけ小皿に落として凛子に渡した事が、切欠だった。
エイゼルが飲んでいた物も酒の種類で「ラエム」凛子が最初に渡されたミルクに入っていた物は「ルッカラ」というブランデー系。利き酒のように、並んでいる瓶の中身を確認し、凛子はこの世界の単語をいくつか覚えた
――凡て酒の名前だが。
因みに何を飲んでも「わああこれもお酒だー」と喜んでいた凛子に、エイゼルが「サケ?」と問い、ワールドワイドを超えた呑ミニケーションが成立したのである。
明けて翌朝。
ザルを通り越してワクである凛子の胃腸および肝臓は、二日酔いという言葉を未だに知らない。
パンとスープと卵料理らしき朝食を済ませると、エイゼルが女主人に何かを告げた。
店の奥にひっこんだリラが足首まである防寒着を持ってき、それを凛子に着付ける。促されるまま店の外へ出ると、エイゼルが凛子の頭にフードをばさりと被せた。
はらはら舞い散る雪は止む気配が無い。
街の光景は物珍しく、凛子は興味深げに左右に視線を配りつつ、エイゼルに並び歩いていた。
石畳が続き、木造の家々が路の両側に立ち並んでいる。この付近は商家が多いのか、看板に何の商いをしているかを指す、イラストのような物が板看板に彫られている。
お世話になっている宿は、酒瓶と杯らしきものが描かれている看板が下がっていた。
剣と盾。
鍵モチーフの意匠。
コインが二つ並んでいる物。
酒瓶だけが描かれている物と、あの宿のものとの違いは不明だ。
隣を歩いていたエイゼルがすっと腕を上げて前を指し示した。
昨日も白い世界に薄っすらと見えた尖塔である。
近づくと三つの尖塔をもつカテドラルのような建物が、開けた広場に面していた。
街の木造家屋とは違い、石造りの重厚な建造物で、左右対称に配置されてある尖塔の間に聖堂らしき建造物があり、裏手に一際高い尖塔が聳えている。
石段をあがり両開きの扉を押して中に入ると、中央奥には祭壇がある。
高い天井の両脇と祭壇後部にはステンドグラスが配置され、神聖かつ静謐な静けさが広がっていた。
両側に配置されてある長椅子はまばらに人が座っている。
手を組み祈っている姿は、あちらの世界と差異が無いような気がした。
中央の通路を歩き祭壇へと近寄ってみる。司祭らしき人物はそこには居らず、右手を天に向かって伸ばしている白い石造が祭壇の後ろに設置されてある。
白い神像の左手に、狼に似た黒い獣の像。
口には剣をくわえており、利口そうな顔つきで神像を見上げていた。
獣の像の方に近寄り、エイゼルが剣の柄あたりを指差した。
五つの石がはめ込まれている。
上からトパーズ、真珠、サファイヤ、エメラルド、オニキスといった具合で、なかなか高価そうだ。
そのうち真ん中の青を指しながら「シャアル」と、発した。
「しャール?」
「そう、これがシャアル。 蒼水晶は古語でシャアルというから」
「ん? しャール?」
「そう、シャアル」
エイゼルは青い石を指差しながら頷く。
「えっと……もしかして……それをシャールって言うの、かな……?」
嫌な予感を覚えながら疑問を口にすると、エイゼルは「そうだよ」とでも言うように、またシャアルと繰り返した。
思わず頭を抱えてしゃがみ込む。
よくよく考えるとありえない話じゃない。
凛子の凛ひとつとっても、発音だけなら意味が分かれる。
凛としたの凛。風鈴の鈴。隣人の隣。竜胆の竜。
それを前提とすると、ここでのシャールも名前とは限らない。
恐らくサファイヤに似た石をシャールというのだ。
「シャール、シャール……シャ……シュール? 違うな……シェリー……はお酒だし……しゅりえる……しゅれいる……駄目だ忘れた……メモっとけば良かった……」
シャールに会えればどうにかなるでしょ、と安易に考えていたのだが、会うどころの話ではない。
言葉も通じない異世界で、シャールを探す事なんて出来るのだろうか。
一気に途方にくれ、凛子は絶望を背負い肩を落とした。