扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
 硫黄に似た匂いの中、凛子は緊張を解きほぐすよう、うん、と背中を伸ばし、頭を浴槽のふちに預ける。

 雪嵐はおさまったようで、大きく切り取られた窓外には静かな夜が広がっていた。
 そっと忍びこむ雪あかりは、想像以上に明るい。

 半分露天になっているような浴場は四畳ほどの広さで、裏庭に面している。
 立ち上がって背を伸ばさない限り、目隠しも兼ねている防風の立ち木向こうからは、伺えないだろう。

 寒さに震え飛び込んだ建物は、酒場と宿屋を兼ねているようだった。
 女主人――リラと、青錆色の髪をした男――エイゼルとの、会話ともいえない会話から、自分がいったい何処にいるのかを確信した。

 アゼリアス。

 繋がった扉によって、あの週末だけルームシェアした男が、ぽつぽつと語った母国についての話。
 魔法があって魔術があって、賢者が居て、戦争もおこるかもしれない、凛子の世界と理の違う、異世界。

 まさか自分が、世界を跨いでしまうなんて。
 しかも運がいいのか、エイゼルという男はシャールを知っているらしい。
 とりあえずシャールに会って相談してみよう。と、この時の凛子はあくまでも暢気に考えていた。

 十分に体を暖め湯からあがる。
 鏡に映る頬は上気している。どこの世界にあっても変わらない自分の顔に安堵した。
 麻に似た材質の布で髪の水気を拭き取り、脱いだ衣服を手にする。
 少しだけ考えて、浴室で下着を洗ってしまうと、布に包んだ。
 一日もあれば乾きそうだ。

 浴場から母屋へと続く飛び石を渡り、途中で足が自然に止まった。
 横殴りに吹き付けていた雪は、風がやんだおかげで、今は静かにただ、しんしんと降り積もる。
 雪の街に、三角屋根の家並みが、影を落とし、ひとつひとつで誰かが生活しているのかと思うと、不思議な感覚がする。

 誰にも知られぬ誰も知らぬ

 そう、この世界は凛子を誰も知らない場所なのだ。
 そして話でしか知る術が無かった場所だ。
 そんな夢の世界に自身の足で立ち、雪の感触を確かめ、冷たい大気を吸い込んでいる。
 広がる光景を目に焼き付けるようにながめると、凛子は小さな声をあげて笑った。

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