2Kの君~終電帰りの限界OL、2Kの扉を開けたら異世界騎士の部屋でした
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ここ、大陸の北東に位置するアゼリアス聖王国は、華の季節へ移ろう前に、雪嵐が何度がやってくるのが特徴だ。
整備された街道向こうに見えるゼリアス山脈へ続く森は、雪を冠にしながらも若木が芽を出し始めている。
国を縦断しパリエス湾へと流れ込む大河の一つ。
昨秋に治水工事が完了した、王都ガーラントと学術都市クァルツの間にある堤が緩んでいるとの報告を受け、シェイルは視察の為、足を運んでいた。
鬱屈とした気分を晴らすための気晴らしとして。
春の訪れを予告する雪嵐は昨日のもので、三度目。
かなりの降雪を齎したのち、ゆるやかにあがる気温に溶け出しだした雪は容を変え、川へと注ぎ込む。
丁度支流が交差するゼレスの堤は細心の注意を払っていても、払いすぎるという事は無い。
聖王騎士団クァルツ支部隊長レイモン・ジゼイは、機嫌悪そうな男を一瞥すると、机上にばさばさと書類を並べていく。
彼がこのような顔をしている時は、触らぬ神に祟りなしである。
「あー一応、こっち報告書だからさ。堤の補修工事には自警の方も借り出しってから」
上官でもある男に対しての態度ではないが、付き合いは十年を超える。
十四年前に突如、近衛から正騎士へと鞍替えすべく聖王騎士団の門を叩いた男は、家柄だけではなく実力でも抜きん出ていた。
こんな化け物が王族にはごろごろいるのか、と王城の奥深くで大切にされてきた第二王子が、最終的に自分を叩きのめした時――当時はレイモンが上官だった――彼は信心深くも無いのに、リアス神に感謝の祈りを思わず捧げたものだ。
執務室を気だるげな空気と共に占拠したその上官は、憮然と言った様子で書類にサインをしはじめる。
執務椅子を乗っ取って半刻。ここまで完璧に無言である。
最後の一枚にサインし終えると、男は乱暴にぽいと羽ペンを放った。
ぽたぽたと濃紺のインクが机に色を落とす。
緩慢にそれを見やり、男は煩わしそうに髪をかきあげた。
これで若い娘のように癇癪でも起こそうものなら、それなりの対処の仕方もあるのだが……と思いながら、レイモンはついに姿勢を崩して、執務机前に設えてある長椅子へ腰を下ろす。
昨日、王城で春待ちの宴が開かれたのは知っている。
しかし、レイモンは顔を出していない。
天候の悪化は宮中行事の暦通りとはいかないし、明けまで続いた雪嵐のお陰でクァルツの街から出ることが叶わなかったからだ。
平穏なこの時勢、聖王国軍の騎士達は、戦乱に身を投じる事も無く、各所領の統治を補佐している。
クァルツ寄りの堤は、春に緩みやすい為警備線を巡らせていたものの、案の定、気温の上昇した今朝方から水量が増加している。
くわえて、昨晩は、積雪の重みに耐えかね、学舎講堂の屋根の一部が崩れた事もあって、レイモンは休む機会を失ったまま一昼夜働きづめである。
午後の陽光は気を抜くとたちまちのうちに眠気を誘う。
上官の不機嫌の原因に、なんとなく想像を巡らせながら、目を閉じようとすると「なんだ寝るのか」と声がかかった。
「だって、何にも言わねーんだもん。坊ちゃん」
「坊ちゃんと、言うな」
「んじゃ殿下」
ぎろりと睨み付けられ、レイモンははいはいと答える。
「聖王騎士団 右将軍 ヴェイル・シェイル・ガーラント・エレ・ラ・アゼリアス閣下」
「長いな」
何を言っても駄目なようである。
「――夜会で何かあったか?」
レイモンの言葉に、シェイルは「ああ」と低い声を出す。
やっぱり話を聞いてもらいたかったんじゃないか、とレイモンは密かに笑うが、上官の名誉の為に何も言わなかった。
不機嫌をそのまま顔に貼り付けている光雷の騎士は「坊ちゃん」と呼んでいた頃と大して変わりが無いように見え、懐かしかった。
どうやらレイモンの想像通りの饗宴が繰り広げられたらしい。
アゼリアス聖王国の珠玉が一人、皇太子は隣国トゥリローゼの王女を妻とし、二人の間に皇太孫である第一皇子が目出度くも誕生したのは九年前。
聖王庁の大司祭である第三王子はともかくとして、未だに独身を貫く第二王子の立場は、軍属である事も手伝い、なかなか難しいようだ。
国中の年頃の娘の憧れである聖王騎士ともなると、女の影が皆無という事はまずない。
シェイルも、それなりに浮名を流してはいるが、噂になる相手はいつも後腐れの無い相手ばかりだ。
一回りも上の未亡人であったり、妓楼で名高い美姫であったり。
実は、本人の与り知らぬ所で、本命は蔦薔薇の麗しの君なのでは?
などという下手すると不敬罪になりかねない噂も流れている。
と言うのも、シェイルのお相手はだいたいが黒みがかった髪をしているからだ。
室内では亜麻色に色味を落とす髪は、光に透けると、純度の高い黄金色に輝く。
光と対成す要素は闇。
黒は闇を象徴する色だ。
無意識のうちに、対なる魂を捜し求めているのかもしれない。
「そうだな……いっそのことお前の娘をくれ、レイモン。苦労はさせないぞ」
「ちょ、うちのレイラちゃんは三歳だぞ! 今度は幼女か!」
レイモンは愛娘の安全を確かめるように、視線を彷徨わせる。
……娘は濃緑色の髪をしていて、角度によっては、黒にも見える。
いやいやいやいや。そこまで想像して、だから有りえねー……と冷や汗を流す。
そういえば、ここ最近、光雷の騎士さまの、浮いた話を聞いていなかった。
「冗談も通じないのか」
「んな、怖い顔で言われたら、思い詰めるあまりって想像しちまってもおかしくねえだろうが!」
「いろいろ面倒だな……」
クァルツ支部隊の執務室を、本来の主に返したシェイルは、鍛錬場を冷やかすと、そのまま奥の建物へ足を運ぶ。
気晴らしにレイモン相手に軽口を叩いたものの、このまま王城に戻る気分には結局なれず、半ばこじつけのような理由を探し、そこの扉を開く。室内は転送の術式が彫られた床石が並んでいる。
目的の座標が示されいる物の上に立った彼は、魔力を注ぎ込んだ。