彼は意地悪なボイスアクター(仮)

第一章

あれは1か月も前のことだった。

紗枝はテレビ局の食堂で1人食事を取っていた。
太陽テレビに入社してもうすぐ1年が経とうとしていた頃だった。
紗枝は、上はグレーのパーカー、下はジーンズに薄汚れた白のスニーカーを履いていた。
ジーンズのもも部分にはガムテープが張り付いていて、腰にさげた本体のガムテープと同じ色をしていた。

食堂にはタレントを含めて打ち合わせがてら食事を取っている大きなグループと3人1組の女性グループと男女が数人、紗枝と同じように1人で食事を取っていた。
大きな食堂の割には人数が少ない時間帯だ。
とはいっても12時ぴったりに一斉にランチタイムとなる職種ではなかったので、だいぶ遅い昼食だった。

「最近の新入社員はいいなぁ」

いつの間にか近くに上司である飯塚健吾(33)がトレイを持って立っていた。
どうやら食事を終えたようで返却棚に返しに行くところのようだった。
先程見た時は返却棚の近くで食事をしていたので、わざわざここまで嫌味を言いに来たのはすぐにわかった。

「すみません」

この1年弱で「すみません」が紗枝の口癖になっていた。

「俺が入社した時は食堂でゆっくりランチなんて出来なかったぞ」
「飯塚ディレクターの仕事が早いから、おかげで私たち後輩たちは人間らしい生活が出来ています。ありがとうございます」

紗枝は箸を持った手で口を押えながら答えた。

「そうだろうな」

飯塚という男がこのように言われることを喜ぶということは、何度も間違えた対応から学んだことだった。

「飯塚さん、ちょっと良いですか?」

どうやら紗枝はこれ以上、嫌味を聞かずに済みそうだ。
飯塚は声をかけてきた人物にむすっとした表情を向ける。

「あ、すみません。飯塚ディレクター」
「ああ、どうした?」

飯塚がくるっと紗枝の方を向き、トレイを突き出した。

「あ、私が戻しておきますので行ってください」

紗枝は急いで立ち上がりトレイを丁重に受け取る。
飯塚はあからさまなため息をついた。
紗枝はまた対応を間違えたと思った。

「お前さ、こういうのは俺が動く前に気付いてやるんだよ」
「すみません」
「ADはな、先手先手をいかないと俺みたいにディレクターにはなれないぞ」
「勉強になります」

この言葉も口癖になっていた。飯塚専用だけども。
去り際に後ろからついていく飯塚に声をかけてきた人物が振り返ると紗枝にだけ見えるように「ごめん」とポーズで示した。
紗枝は首を振り微笑を浮かべてそれに応えた。
むしろ解放された感謝しかなかったので、謝る必要はなかった。
紗枝はトレイを返却棚に置くとスープの中に沈めてあるティッシュと爪楊枝を掴みゴミ箱に捨てた。
最初に飯塚の食事の片づけをやった時はこれを見て顔が歪んだが今は平気になった。
わざわざ使用済みのティッシュを残っている汁物に沈める飯塚の癖が紗枝には謎でしかなかったけれど、先輩ADの中には同じことをやる人が数名いたので“あるある”なのだと思うことにした。
近くにある水道で入念に手を洗い、コロナ後から置かれるようになったアルコールを2プッシュした。
ここに水道があるのはきっと自分と同じように手づかみで先輩たちのゴミを捨てないといけない新人がたくさんいるのだろうと紗枝は思った。
自分だけではないということだけが紗枝を慰めた。
紗枝は再び自分の席に戻り昼食を再開した。
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