恋は手のひらの上で
駅前の空気は、昼より少しだけ軽くなっていた。

待ち合わせの場所は、すぐに分かった。
なぜなら、私が着いた時にはもうそこに椎名さんがいたからだ。


駅前の柱に軽く背を預けて、腕時計に視線を落としている。
スマホではなく、時間を見ているあたりが、いかにも椎名さんらしい。

夜風に、ゆるく流した前髪がわずかに揺れた。


近づいた私に気づくと、背中を離して、まっすぐ立つ。

「こんばんは」

そう言って、まっすぐに目を見る。
そして、ちゃんと嬉しそうに笑った。


その視線と笑顔に、ヒールの高さも、昼間の落ち着かなさも、全部見透かされている気がして、私は一瞬だけ息を止める。

「すみません、お待たせしました」

言いながら、ほんの少しだけ視線を外した。

「いえ。いま来たところです」

本当はそうじゃないような気もするが、彼のやさしさなので私からはなにも言わない。

「行きましょうか」

歩き出す彼の後ろを、私も歩く。
一瞬、椎名さんが私を見て、すぐに隣に並んでくれた。
肩が触れそうな距離。触れない距離。


その小さな出来事が、もう嬉しい。
会えただけでも嬉しいというのに。

浮き足立っているのは、彼にもうとっくにバレてるかもしれない。


お店のガラス扉に映った私たちは、思ったより“二人”に見えた。


そのガラス扉を開けた瞬間、ふわりと赤ワインの匂いが混ざった空気が流れてきた。

木のテーブル。少し高めの笑い声。グラスの当たる音。

高級ではない。
けれど、安っぽくもない。
どこかあたたかい雰囲気のお店だった。


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