恋は手のひらの上で
椎名さんがビールを口に運ぶ。
喉が静かに動く。

私もワインをひと口飲んで、そしてどこか安心する。
強い緊張が、ほどけていく感覚。

完全に気を抜いていた、その時。


グラスを持ち上げたまま、椎名さんが一度視線を落とす。

ネクタイの結び目に指をかけた。

ほんの少しだけ、緩める。
ゆっくり、ほんの数センチだけ。

ボルドーの色が、灯りの下で深くなる。


私はその動きを見てしまった。

見てしまってから、もう一度、慌ててグラスに口をつける。

途端にワインの味が、分からなくなってしまった。


テーブルには、前菜やチーズ、生ハムなど、ベターなおつまみが並ぶ。

彼の一挙手一投足が、気になる。
グラスを持つ手も、フォークを取る手も、口に運ぶ仕草も。

あんまり見つめていたら、うっかりボロが出そう。


「承認会議、もっと難航すると思ってました」

紛らわすために、仕事の話を振る。

「前日にトラブルもあったし、質疑応答も飛び交うんじゃないかと身構えてたんですけど…なかったですね」

「想定問答を詰めすぎたかもしれません」

椎名さんはビールを一口飲んで、静かに言う。

「用意しすぎると、逆に出番がなくなるものです」

「それ、ちょっとかっこよく言ってません?」

「事実です」

真顔で返されて、私は思わず吹き出した。

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