恋は手のひらの上で
ああ、昨日の私、完全に浮かれてた。

そこで、

「西野」

と、隣から不機嫌そうな声が飛んできた。
振り向くと、なんとなく機嫌の悪そうな顔をした高橋がいた。

「“無事に帰りました”って、なに」

眉間にしわまで寄せて、明らかに聞いていた顔だ。

「いや、なにも」

「絶対、言ってた」

「だから、なんでもないって。残業で遅くなったの」

「昨日は定時で上がってたじゃん」

「……」

言葉が詰まる。

高橋は机に肘をつき、逃がさない顔でこちらを見た。

「昨日さ」

少し低い声。

「駅前で見た、西野のこと」

心臓がどくんと鳴る。

「……そう」

椎名さんといたのを見られたのなら、認めるつもりでいた。
けれど高橋は、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。

「誰かと一緒にいた?」


聞き方が、明らかに探っている。
いつもならもっと真っ直ぐ聞くのに、今日は迷いが見えた。

しばらくして、高橋はふっと顔を上げる。

「いや、やっぱりいいや。どうせ聞き出したところで、仕事って言うだろ」

その笑い方が、いつもより少しだけ乾いている。

「…“仕事相手”なら、安心だし」


一瞬、意味が分からなかった。
そのまま視線を落とすしかない。

彼はそれ以上聞かず、自分の席に戻っていった。

「まあ、西野が誰と飲もうが、別に自由だけど」

キーボードを叩く音だけが、やけに大きく響く。


たぶん、高橋は気づいてる。

でも、あえて聞かなかった。
聞いたら、はっきりしてしまうからだ。

私も、もうこの気持ちを変えられる気がしなかった。



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