恋は手のひらの上で
「とりあえず、今日は無理に食べなくて大丈夫です」

椎名さんが体温計をテーブルに置きながら言った。

「水分だけ取れれば」

「…はい」

うなずいたものの、身体がまだぼんやりしている。

椎名さんは少し考えるように視線を落として、それからクローゼットを開く。
収納スペースが見えたけれど、どれもシンプルなものばかりが並んでいる。中から服を取り出すのが見えた。

「その服のままだと休みにくいと思うので、よかったらどうぞ」

一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
差し出されたグレーのスウェットと、椎名さんを見比べる。

「え?」

「着替えた方が楽だと思います」

あまりにも自然に言われて、逆に動揺する。

「い、いや、で、でも」
と、困惑が面白いほど声に出た。


「脱衣所、使ってください」

絶対に私のあたふたした様子は見ているはずなのに、彼はまったく気にすることなく、廊下の奥を指差した。

「右側です」

さらっと言ってキッチンの方へ歩いていく。

断る隙がない。
私は少しふらつきながら立ち上がった。

「あ。歩けます?」

ひょこっとキッチンから顔を出され、私は反射的に「大丈夫です!」と声を上げてしまった。


言われた通り廊下を進む。
右のドアを開けると、小さな洗面スペースがあった。

白い洗面台。
鏡。

その横に、きれいに並んだ歯ブラシ。
─────ちゃんと、一本だけ。

タオルも、掛かっているのは一枚。

整っているけど、生活感はちゃんとある。
でも、誰かと暮らしている感じは、一切ない。

洗濯機の横に、乾いたタオルが何枚か積まれている。
洗ってはあるけれど、畳むところまではしていないらしい。

“男性の一人暮らしそのもの”だ。

なぜか、そこで胸の奥が少しだけ落ち着く。


「…なに安心してるんだろ」

自分で自分につぶやいて、少しだけ恥ずかしくなる。


< 141 / 228 >

この作品をシェア

pagetop