恋は手のひらの上で
彼はわずかに身をかがめた。

「これで届きますか?」

「……はい」

指先が、彼の髪に触れる。

茶色い髪の毛は、思っていたよりも柔らかくて、そして彼に初めてちゃんと触れた瞬間だった。

葉をつまむ。
近い。息が、少しだけ混ざる。


取れました、と言おうとして、その前に目が合う。

どちらからともなく、笑った。
作った笑顔じゃない。
会議室では見せなかった顔。


「シリーズ展開」

椎名さんが、私の髪についていた葉を指先で遊びながら、目を細めた。

「楽しみにしています」

胸の奥が、静かに震える。

椎名さんはブラックコーヒーの缶を、軽く上へ投げてキャッチした。

「長い付き合いになるなら、こういう気遣いは、俺もちゃんと覚えておきます」

「わ、私も」

ほとんど真っ白の頭で、椎名さんに向き合った。

「背中を押してくれたこと、忘れません」


駐車場に着いてしまった。
名残惜しい。もっと話していたかった。

でも、そういうわけにはいかない。


車のドアを開ける前に、椎名さんがこちらを見る。
メガネ越しの視線は、いつもよりまじまじと見られているような感覚を覚えた。

「西野さん」

「はい」

「次は現場で会いましょう。では、また」

はい、というか細い返事しか出なかった。


エンジン音が鳴り、車が遠ざかる。

風がまた吹いた。
揺れた自分の髪に触れる。

さっき触れられた場所が、やけに熱い。

三千円は、数字じゃない。
未来への入口。


そして、たぶん今日。
その入口の前で、同じ風を受けた。


それが仕事の熱なのか、
それとも、仕事だけじゃないのか。
まだ、分からない。

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