恋は手のひらの上で
私はもう一度、振り返る。

「主任。温度は、いま何度ですか?」

急いで主任が計器を確認するのが見えた。

「二十五・四度。規定内だけど…」

「もう一度、粘度を測ってもらえますか?できれば再攪拌後で」

一瞬だけ、場の空気が止まった。
高橋が呆れたように小さく息を吐く。

「…西野、そこまでやるか?」

「やります」

思ったよりも静かな声だった。

「主任、申し訳ありませんが、お願いできますか?」

主任は無言でうなずき、指示を出す。

釜が再びゆっくりと回り始めた。
低く響くモーター音。


透明なジェルが、光を巻き込みながら渦を描く。
数分後に、再測定の数値が表示パネルに浮かび上がった。

「……五千八百です」

表示された数値に、誰もすぐ反応しなかった。
機械音だけが、一定のリズムで続いている。

さっきまで想定内だったはずの数字が、静かに境界を越えていた。


さすがに高橋も眉を寄せて資料を見直す。
主任と二人で計器をもう一度確認しているところだった。

椎名さんの視線だけが、まっすぐこちらに向いている。
目が合った。
けれど彼は何も言わず、ただそのまま立っていた。


私は、そっと自分の手のひらを見る。
さっき触れたジェルの感触が、まだ指先に残っている気がした。

ほんのわずかに、とどまる重さ。
時間にすれば、一秒にも満たない差。
でも、朝に使うものなら、その一瞬はきっと消えない。


「…一度、止めましょう」

そう言った私の声は思ったより小さかった。

それでも主任はうなずき、ラインを停止させる。
ノズルの動きが止まり、規則正しかった音が途切れた。


静かな空間に、白い光だけが落ちている。
私は手のひらを軽く握った。

そこにはもう何もないはずなのに、たしかに、さっきの感触だけが残っていた。




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