白ねこのココと、あまい森のひみつ
第一章 甘味の才能
ここに来てから、この体にも、声にも、少しずつ慣れてきていた。
森を彷徨って三日目、私はようやく人里を見つけた。
朝靄の向こうに、人の暮らしが見えた。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「おはようございます」
そこは、城壁に囲まれた中世ヨーロッパ風の街だった。
石畳の道に、木造の家屋。行き交う人々の中には、獣人らしき姿も見える。
「ここなら、獣耳があっても大丈夫そうね」
勇気を出して街の門をくぐる。門番の兵士は、私を一瞥しただけで通してくれた。
街の中は活気に溢れていた。市場では野菜や肉、魚が売られている。武器屋、防具屋、宿屋、酒場。典型的なファンタジー世界の街だ。
ただ一つ、決定的に欠けているものがあった。
「お菓子屋がない……」
市場を隅から隅まで歩いたが、パンや果物はあっても、私が知っているようなお菓子は一切見当たらなかった。
「この世界、お菓子の文化が発達してないの?」
そう考えると、森で見つけたクッキーの木の存在が不思議だった。あれは一体何だったのか。
この三日間で、私はある程度、発声のコツも掴んでいた。
ゆっくり、意識して話せば、人の言葉として形になる。
ただし、驚いた時や力を込めた時には、今でも「にゃ」が混じる。
完全に人間ではない――その事実だけは、どうやら変わらないらしい。
「あら、珍しいケットシーね」
突然、声をかけられた。振り向くと、そこには美しい女性が立っていた。長い金髪、エメラルドグリーンの瞳、優雅なドレス。いかにもお金持ちという雰囲気だ。
「わたくしはエリザベート・フォン・シュヴァルツヴァルト。この街の領主の娘よ」
「あ、はじめまして。私はココ……です」
とりあえず、自分の本名を名乗る。
「ココ? 変わった名前ね。でも可愛らしいわ。ところで、あなた、住む場所はあるの?」
「いえ、実は今日この街に来たばかりで……」
エリザベート嬢は私をじっと見つめた後、ふふ、と楽しそうに笑った。
「その白い毛並みに琥珀色の目。それから、その困り顔。可愛いわね」
「え……あ、ありがとうございます」
褒められ慣れていないのか、耳と尻尾がぴこぴこと動いてしまった。それを見たエリザベート嬢が「まあ!」と声を上げて、さらに目を輝かせる。
「しかも耳と尻尾まで動くの! 最高じゃない!」
「は、はあ……」
「それなら、わたくしの屋敷で働かない? ちょうどメイドが欲しかったのよ」
こうして、私はエリザベート嬢のメイドとして働くことになった。
後から知ったのだが、エリザベート嬢は生粋の動物好きで、特にケットシーという種族に強い興味を持っていたらしい。私が屋敷に来て以来、暇を見つけては「耳を触っていい?」「尻尾、ふわふわね」「肉球、プニプニだわ!」と纏わりついてくるのが少々困ったが、衣食住が確保されているので文句は言えなかった。
「ココ、あなた肉球があるのね。手袋がいらないから、洗い物をするのに便利そう」
「便利というか……まあ、確かに皿を洗うのは苦ではないですけど」
猫としての身体能力が予想以上に高く、高いところへのアクセスも得意だったので、掃除は割と楽にこなすことができた。
ただ一つ困ったのは——
「にゃっ!」
ときどき、自分の意思と関係なく猫声が出ることだった。驚いた時や、何か重いものを持った時、くしゃみをする時に「にゃ」「にゅ」「みゃ」という声が混じる。
「ココ、今、にゃってなったわよ」
「……聞いてないことにしてください」
屋敷の他の使用人たちも最初は戸惑っていたが、すぐに慣れ、むしろ可愛がってくれるようになった。特に年配の料理長のマダム・ベリーは、私を自分の孫のように扱ってくれた。
「ココちゃん、今日のパンはどう? 初めて白いパンを食べたの?」
「はい、美味しいです。でも——」
私はパンを見つめながら、もやもやとした何かを感じていた。
「甘くない」
「甘くない? パンが?」
「はい。甘いものが食べたいんです。クッキーとか、ケーキとか……」
マダム・ベリーが少し寂しそうな顔をした。
「そういえば、昔はあったらしいわねえ。そういう甘い焼き菓子。私が子どもの頃は、祭りの時に蜂蜜を使ったパンが配られたものだけど……今は材料も高くて」
その会話が、私の中で何かに火をつけた。
ある夜、私は屋敷の厨房でこっそり実験をしていた。
昼間に市場を見て回ったが、甘い食べ物といえば果物か、高価な蜂蜜を使ったものしかない。庶民が日常的にお菓子を楽しめる文化が、この世界には存在しない。
「もったいない」
心から、そう思った。
お菓子は、ただ甘いだけじゃない。疲れた時に一口食べるだけで、ふっと肩の力が抜ける。誕生日ケーキを囲んで笑い合う記憶。放課後に友達とシェアしたスナック菓子。受験前夜に食べたチョコレート。
甘いものには、人の心に特別な場所を作る力がある。
「私、お菓子を作ります」
翌日、エリザベート嬢に宣言した。
「え?」
「漫画家時代、気分転換によくお菓子作りをしてたんです。レシピもたくさん知ってます。材料があれば、きっと作れます」
エリザベート嬢は、最初は半信半疑だった。
「あなた、料理はできるの?」
「得意ではないんですが、お菓子作りだけは別で。前の仕事がかなりストレスフルで、発散のためによく焼いてたんです。クッキー、マカロン、チーズケーキ、シフォンケーキ……」
「チーズケーキ? マカロン? それ、食べ物の名前?」
「はい。この世界にはないかもしれないですが、私の知っているお菓子です」
エリザベート嬢は少し考えた後、厨房の使用を許可してくれた。ただし、材料費は自分で賄うこと、というのが条件だった。
問題は材料だ。砂糖は高級品なので使えない。小麦粉も限られている。バターや卵も貴重品だ。
「クッキーの木……あれが使えそうだ。屋敷の森にもあるかも」
翌日、私はその森へ向かった。
最初に迷い込んだ深い森とは違い、
ここは街の外れにある、手入れされた森だった。
慣れない道を、四肢で器用に歩く。
猫の身体能力のおかげで、岩の多い道もすいすいと進める。
それだけは素直に、「転生してよかった」と思う部分だった。
この森にも、以前見たものとよく似たクッキーの木があった。
同じものではないけれど、甘い気配は、確かに同じだった。
木の前に立ち、実をいくつか収穫する。よく観察すると、それは、完全なクッキーではなかった。
クッキーによく似た形をした、植物の実だったのだ。
表面は焼き菓子のようにひび割れていて、
色も香りも、どう見てもクッキーそっくりだ。
けれど、手に取ると、わずかに木の実の重みがある。
割ってみると、
中にはさらさらとした粉状の物質が詰まっていた。
「これ、もしかして……」
指先に付いた粉を、ほんの少し舐めてみる。
甘い。
とても、自然でやさしい甘さだった。
「天然の甘味料……!」
胸が高鳴る。
私は興奮を抑えきれないまま、クッキーみたいな実を袋いっぱいに詰めて、屋敷へと急いで戻った。
耳がぴんと立ち、尻尾が勢いよく揺れている。感情が素直に出るのは少々恥ずかしいが、今はそれより実験が楽しみで仕方なかった。
厨房で実験を始める。実を砕いて粉にし、小麦粉と混ぜて水を加える。卵がないので、代わりに森で採れた植物性の粘液を使う。バターの代わりには、この世界で一般的な獣脂を少量使用。
生地を薄く伸ばし、型で抜いて、オーブンで焼く。
十五分後、厨房は甘い香りに包まれた。
「成功!」
焼き上がったクッキーは、見た目も味も完璧だった。サクサクとした食感、ほどよい甘さ、バターの風味。
「ココ、これは……!」
試食したエリザベート嬢は、涙を流して感動していた。
「こんなに美味しいお菓子、生まれて初めて食べたわ!」
「よかった……!」
思わず私の耳と尻尾がピーンと立ち上がった。エリザベート嬢がそれを見て、食べながらにっこりと笑った。
なぜこんなにも強く心に響いたのか。
その理由を、この時の私は、まだ知らなかった。
「ココって、うれしい時に耳が立つのね」
「立ちます。恥ずかしいんですが、止められなくて」
「全然恥ずかしくないわよ。むしろ、かわいい」
その日から、私のお菓子作りが始まった。
森を彷徨って三日目、私はようやく人里を見つけた。
朝靄の向こうに、人の暮らしが見えた。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「おはようございます」
そこは、城壁に囲まれた中世ヨーロッパ風の街だった。
石畳の道に、木造の家屋。行き交う人々の中には、獣人らしき姿も見える。
「ここなら、獣耳があっても大丈夫そうね」
勇気を出して街の門をくぐる。門番の兵士は、私を一瞥しただけで通してくれた。
街の中は活気に溢れていた。市場では野菜や肉、魚が売られている。武器屋、防具屋、宿屋、酒場。典型的なファンタジー世界の街だ。
ただ一つ、決定的に欠けているものがあった。
「お菓子屋がない……」
市場を隅から隅まで歩いたが、パンや果物はあっても、私が知っているようなお菓子は一切見当たらなかった。
「この世界、お菓子の文化が発達してないの?」
そう考えると、森で見つけたクッキーの木の存在が不思議だった。あれは一体何だったのか。
この三日間で、私はある程度、発声のコツも掴んでいた。
ゆっくり、意識して話せば、人の言葉として形になる。
ただし、驚いた時や力を込めた時には、今でも「にゃ」が混じる。
完全に人間ではない――その事実だけは、どうやら変わらないらしい。
「あら、珍しいケットシーね」
突然、声をかけられた。振り向くと、そこには美しい女性が立っていた。長い金髪、エメラルドグリーンの瞳、優雅なドレス。いかにもお金持ちという雰囲気だ。
「わたくしはエリザベート・フォン・シュヴァルツヴァルト。この街の領主の娘よ」
「あ、はじめまして。私はココ……です」
とりあえず、自分の本名を名乗る。
「ココ? 変わった名前ね。でも可愛らしいわ。ところで、あなた、住む場所はあるの?」
「いえ、実は今日この街に来たばかりで……」
エリザベート嬢は私をじっと見つめた後、ふふ、と楽しそうに笑った。
「その白い毛並みに琥珀色の目。それから、その困り顔。可愛いわね」
「え……あ、ありがとうございます」
褒められ慣れていないのか、耳と尻尾がぴこぴこと動いてしまった。それを見たエリザベート嬢が「まあ!」と声を上げて、さらに目を輝かせる。
「しかも耳と尻尾まで動くの! 最高じゃない!」
「は、はあ……」
「それなら、わたくしの屋敷で働かない? ちょうどメイドが欲しかったのよ」
こうして、私はエリザベート嬢のメイドとして働くことになった。
後から知ったのだが、エリザベート嬢は生粋の動物好きで、特にケットシーという種族に強い興味を持っていたらしい。私が屋敷に来て以来、暇を見つけては「耳を触っていい?」「尻尾、ふわふわね」「肉球、プニプニだわ!」と纏わりついてくるのが少々困ったが、衣食住が確保されているので文句は言えなかった。
「ココ、あなた肉球があるのね。手袋がいらないから、洗い物をするのに便利そう」
「便利というか……まあ、確かに皿を洗うのは苦ではないですけど」
猫としての身体能力が予想以上に高く、高いところへのアクセスも得意だったので、掃除は割と楽にこなすことができた。
ただ一つ困ったのは——
「にゃっ!」
ときどき、自分の意思と関係なく猫声が出ることだった。驚いた時や、何か重いものを持った時、くしゃみをする時に「にゃ」「にゅ」「みゃ」という声が混じる。
「ココ、今、にゃってなったわよ」
「……聞いてないことにしてください」
屋敷の他の使用人たちも最初は戸惑っていたが、すぐに慣れ、むしろ可愛がってくれるようになった。特に年配の料理長のマダム・ベリーは、私を自分の孫のように扱ってくれた。
「ココちゃん、今日のパンはどう? 初めて白いパンを食べたの?」
「はい、美味しいです。でも——」
私はパンを見つめながら、もやもやとした何かを感じていた。
「甘くない」
「甘くない? パンが?」
「はい。甘いものが食べたいんです。クッキーとか、ケーキとか……」
マダム・ベリーが少し寂しそうな顔をした。
「そういえば、昔はあったらしいわねえ。そういう甘い焼き菓子。私が子どもの頃は、祭りの時に蜂蜜を使ったパンが配られたものだけど……今は材料も高くて」
その会話が、私の中で何かに火をつけた。
ある夜、私は屋敷の厨房でこっそり実験をしていた。
昼間に市場を見て回ったが、甘い食べ物といえば果物か、高価な蜂蜜を使ったものしかない。庶民が日常的にお菓子を楽しめる文化が、この世界には存在しない。
「もったいない」
心から、そう思った。
お菓子は、ただ甘いだけじゃない。疲れた時に一口食べるだけで、ふっと肩の力が抜ける。誕生日ケーキを囲んで笑い合う記憶。放課後に友達とシェアしたスナック菓子。受験前夜に食べたチョコレート。
甘いものには、人の心に特別な場所を作る力がある。
「私、お菓子を作ります」
翌日、エリザベート嬢に宣言した。
「え?」
「漫画家時代、気分転換によくお菓子作りをしてたんです。レシピもたくさん知ってます。材料があれば、きっと作れます」
エリザベート嬢は、最初は半信半疑だった。
「あなた、料理はできるの?」
「得意ではないんですが、お菓子作りだけは別で。前の仕事がかなりストレスフルで、発散のためによく焼いてたんです。クッキー、マカロン、チーズケーキ、シフォンケーキ……」
「チーズケーキ? マカロン? それ、食べ物の名前?」
「はい。この世界にはないかもしれないですが、私の知っているお菓子です」
エリザベート嬢は少し考えた後、厨房の使用を許可してくれた。ただし、材料費は自分で賄うこと、というのが条件だった。
問題は材料だ。砂糖は高級品なので使えない。小麦粉も限られている。バターや卵も貴重品だ。
「クッキーの木……あれが使えそうだ。屋敷の森にもあるかも」
翌日、私はその森へ向かった。
最初に迷い込んだ深い森とは違い、
ここは街の外れにある、手入れされた森だった。
慣れない道を、四肢で器用に歩く。
猫の身体能力のおかげで、岩の多い道もすいすいと進める。
それだけは素直に、「転生してよかった」と思う部分だった。
この森にも、以前見たものとよく似たクッキーの木があった。
同じものではないけれど、甘い気配は、確かに同じだった。
木の前に立ち、実をいくつか収穫する。よく観察すると、それは、完全なクッキーではなかった。
クッキーによく似た形をした、植物の実だったのだ。
表面は焼き菓子のようにひび割れていて、
色も香りも、どう見てもクッキーそっくりだ。
けれど、手に取ると、わずかに木の実の重みがある。
割ってみると、
中にはさらさらとした粉状の物質が詰まっていた。
「これ、もしかして……」
指先に付いた粉を、ほんの少し舐めてみる。
甘い。
とても、自然でやさしい甘さだった。
「天然の甘味料……!」
胸が高鳴る。
私は興奮を抑えきれないまま、クッキーみたいな実を袋いっぱいに詰めて、屋敷へと急いで戻った。
耳がぴんと立ち、尻尾が勢いよく揺れている。感情が素直に出るのは少々恥ずかしいが、今はそれより実験が楽しみで仕方なかった。
厨房で実験を始める。実を砕いて粉にし、小麦粉と混ぜて水を加える。卵がないので、代わりに森で採れた植物性の粘液を使う。バターの代わりには、この世界で一般的な獣脂を少量使用。
生地を薄く伸ばし、型で抜いて、オーブンで焼く。
十五分後、厨房は甘い香りに包まれた。
「成功!」
焼き上がったクッキーは、見た目も味も完璧だった。サクサクとした食感、ほどよい甘さ、バターの風味。
「ココ、これは……!」
試食したエリザベート嬢は、涙を流して感動していた。
「こんなに美味しいお菓子、生まれて初めて食べたわ!」
「よかった……!」
思わず私の耳と尻尾がピーンと立ち上がった。エリザベート嬢がそれを見て、食べながらにっこりと笑った。
なぜこんなにも強く心に響いたのか。
その理由を、この時の私は、まだ知らなかった。
「ココって、うれしい時に耳が立つのね」
「立ちます。恥ずかしいんですが、止められなくて」
「全然恥ずかしくないわよ。むしろ、かわいい」
その日から、私のお菓子作りが始まった。