Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
淡い色のエプロン。
鍋から立ちのぼる湯気。
ポトフのやわらかい香りが、部屋を満たしている。

最近は、どちらかの家で一緒に料理をするのが、二人の小さな楽しみになっていた。


北海道から戻ってから、
こういう日常が、やけに愛しい。

特別な夜じゃなくていい。
高級なレストランじゃなくていい。

同じ空間で、同じ匂いを吸っているだけで、満たされる。

歩の事があってから
希は旬との時間をこれまでより
沢山作るようになってた

「希、ありがとう。忙しいのに」

「ポップアップって始まるまでが大変だから今は時間あるの。」

「ずっと準備で忙しくて会えなくて寂しかったから」

気を使ってくれてるのは痛いほどわかる。
暇なはずがない。

旬はダイニングでワインを開けている。
コルクの抜ける小さな音。

「手伝う?」

「いいよ、もうすぐだから」

振り向きもせず、軽い声。

その時。

テーブルの上のスマホが震える。

短いバイブ音。

何気なく視線が向く。

画面に表示された名前。

——歩。

空気が、ほんの少しだけ変わる。

希はちらっと見る。

でも、出ない。

包丁のリズムは止まらない。

もう一度、震える。

(連絡先、交換してたんだ)

胸の奥に、小さな棘が刺さる。

旬はワインボトルを置き、なるべく自然に聞く。

「出ないの?」

希は野菜を切りながら、

「うーん」

少し笑う。

「なんか“会って話そう”って言われてるんだけど」

旬の手が、止まる。

グラスを持つ指先が、わずかに強張る。

「話すことあるの?」

声は落ち着いている。

でも内側は、静かじゃない。

希は本当に不思議そうに首をかしげる。

「別にないよ?」

心から、という顔。

そして、何の他意もなく言う。

「そんな時間あるなら、旬に会いたいし」

自然。

計算ゼロ。

当たり前みたいに。

旬の胸が、一瞬ぎゅっと締まる。

嬉しさと、安堵と、

そして、ほんの少しの罪悪感。

自分は、あんなに不安になっていたのに。

希は、こんなにも真っ直ぐだ。

スマホは、静かになる。

通知は、止まったまま。

旬はゆっくりキッチンに近づく。

後ろから、希の腰に腕を回す。

驚いた声。

「ちょっと、危ないよ」

「……危なくない」

低い声。

そのまま、背中に顔を寄せる。

ポトフの匂いと、
希のシャンプーの香りが混ざる。

「なに?」

「なんでもない」

でも本当は、

ありがとう、って言いたい。

選んでくれて。

何度でも、自然に。

鍋の中で、やわらかく野菜が揺れる。

外は静かな夜。

テーブルの上のスマホは、もう鳴らない。

旬はそっと目を閉じる。

——今、ここにいる。

それだけで、十分だと思えた。

希の肩越しに見えるスマホ。

画面の端に残る名前。

“歩”

通知は消えていない。

画面が暗くなっても、
そこにあった事実だけが、薄く残像のように胸に残る。
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