深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
「レイ君、ビールおかわり~!」
香奈さんが声を掛けると、パントリーから戻って来たマスターが「今、そんなに飲むと、三杯目の函館塩ラーメンが食べられませんよ」と静かに窘めた。
「食べる! ゆずちゃんも食べるでしょ?」
普段の食事メニューは、マスターが気が向いた時だけのラザニアや、オニオンリング、ドライフルーツ入りの自家製ヨーグルトくらいしかないこの店が、今日だけは完全にラーメン屋の熱気を帯びている。
そのひどく日常的で、温かい騒がしさに、柚子は自然と頬を緩めた。
「いただきます。……すっごく、美味しい」
華やかな立食パーティよりも、皆で啜るジャンクなラーメンの味が、今の柚子には何よりの御馳走だった。
ひとしきりラーメンを堪能し、皆の近況報告で盛り上がった後。
少し落ち着きを取り戻した店内に、静かな音が流れ始めた。
ピアノの繊細なイントロ。
街中で嫌というほど耳にする、あの曲だ。
「ゆずちゃん」
カウンター越しに、マスターが琥珀色の液体が入ったカップを差し出した。
いつものカモミールティーだ。
「この曲、やっぱりいい曲だね。最近はこればかりリクエストされるよ」
「そうですね……。私も、いい曲だと思いますよ」
「誰に向けて書かれたか、知ってるの?」
柚子はカップを両手で包み込み、少しだけ悪戯っぽく笑って、湯気の向こう側を見つめた。
「……さあ。誰でしょうね」
店内に流れる、優しく、切なく、届きそうで届かない旋律。
あの日、この場所で一席分の余白をもって隣り合った二人の物語は、今や一曲の音楽となって、永遠に世界を縛り続けている。
舌の先に残るカモミールの苦味と甘みが、変わらぬ温かさで、彼女を満たしていた。
――カラン、コロン。
軽やかなベルが鳴り、新たな来客を告げる。
扉の前に立っていたのは、スーツに身を包んだ九条だった。
高級料亭での会食をどうにか切り上げてきたのだろう。
少し息を切らしているが、その瞳はまっすぐにカウンターの柚子を捉えていた。
「あれ、柚子さんもう着いていましたか? 早いな」
九条が、いつものように柚子の隣の席へと歩み寄る。
ラーメンの匂いが充満する空間に、彼特有の清廉な香りが混ざり合った。
彼は迷うことなく柚子の隣に腰を下ろすと、周囲の目など気にする様子もなく、柚子の手からカモミールのカップをすっと奪い取り、同じ場所に口をつけた。
「あ、奏翔さんっ……」
「……あんな人混みに柚子さんを置いてきたから、気が気じゃなくて。……迎えに来ましたよ」
カップ越しに落とされる、熱のこもった独占欲の視線。
香奈さんが「うわー、あてられっぱなしだわ。私も彼氏欲しい~」と笑い、トシさんが「九条さんのラーメンもあるからね!」と声をかける。
ここは、仮面を外せる唯一の場所。
深夜2時の、愛しい住人たちが集う場所。
「おかえり! 奏翔さん」
柚子が満面の笑みで迎えると、九条は「ただいま」と、世界で一番優しい声で笑った。
店を出ると、冷たい冬の風が柚子の頬を撫でた。
九条が、自分の巻いていたマフラーを外し、柚子の首元にぐるりと巻きつける。
彼の体温と香りが、柚子をすっぽりと包み込んだ。
「寒くないですか」
「大丈夫です。奏翔さんこそ、薄着なのに」
「俺は、柚子さんが隣にいれば平気ですから」
九条はそう言って、柚子の冷えた手を自分のコートのポケットへと引き込んだ。
ポケットの中で、二人の指先が硬く、解けないように絡み合う。
見上げた夜空には、冷たくも美しい星が瞬いていた。
「……帰りましょうか。寒いから、お湯張ってお風呂一緒に入りましょうね」
「え、一緒に?」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど……恥ずかしいですね」
「うん、その顔可愛い。何か、考えました?」
「考え、……もう! からかってる! 酔ってるでしょ!? 奏翔さん!」
世界がどれほど騒がしく彼を求めても。
彼が帰る場所は、ただ一人の隣だけ。
<HAPPY END>


