君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 持参した瑞々しい花を供え、溜まった水を替え、御影石の墓石を丁寧に雑巾で拭き終えた頃。
 遮るもののない高台の冬の日差しは、少しだけ橙色を帯びて傾き始めていた。
 言葉の入る余地のない、あまりにも静かな時間だった。
 この広い墓地には自分達の他に人影もなく、冷たい突風が吹き抜ける度に、周囲の木々が小さく身を震わせるように揺れる音だけが聞こえている。
 碧南は杖を傍らに置くと、墓石の前に小さくしゃがみ込むようにして腰を下ろした。
 そして、膝を抱えたまましばらく何も言わない。まるで、冬の風の中に散らばってしまった大切な言葉を、一つ一つ指先で探しているように。
 やがて、彼女の薄い唇が微かに動いた。

「……澄朱華先輩ね」

 ぽつりと、ひどく掠れた声で呟く。視線は、墓石に刻まれた名前から一歩も動かないままだった。

「絵が描けなくなる自分に、どうしても耐えられなかったんだ」

 凌は何も言わず、ただ彼女の小さな背中を見つめていた。
 碧南の静かな淡々とした声だけが、冷気の中に続いていく。

「私と、全く同じ病気だった」

 ヒュウ、と鋭い冬の風が吹き抜け、彼女の長い黒髪を乱暴に揺らす。

「昔の先輩はね、本当に凄かったんだよ。部室の誰よりもキャンバスに向かって絵を描いてたし、世界の誰よりも、あの高い空のことが好きだった」

 紡がれる言葉の端々に、狂おしいほどの懐かしさと憧憬が滲んでいた。
 それは、彼女が孤独な病室のベッドの上で、何度も、何千回も思い返し、心の拠り所にしてきた記憶なのだろう。

「でもね、病気が容赦なく進んでいって……」

 碧南は、膝の上で自分の右手を見つめた。
 細く、青白い指先。意識を集中させなければ、まるで他人の肉体のように僅かに震え続ける頼りない手。
 思うように動かないその姿は、かつて彼女が必死に追いかけた先輩の末期と、残酷なまでに重なっているのかもしれなかった。

「最初は、真っ直ぐな線が震えるだけだった」

 感情を押し殺した、静かな声。

「その内、絵の具を混ぜるような、細かい作業がどうしてもできなくなって」

 凌は両手をポケットに突っ込んだまま、ただ黙ってその言葉の重みを受け止めていた。

「それでも、先輩は狂ったように描き続けてた。最後の瞬間まで、筆を離そうとしなかった」

 碧南はふっと、小さく笑う。けれど、その繊細な唇に浮かんだ笑みは、見ていて胸が痛くなるほどに悲しかった。

「……だって、描けなくなるのが、世界で一番怖かったから」

 少しだけ、長い間が空く。
 そして、彼女は決定的な終わりを口にした。

「最後は、心が耐えられなくなっちゃったんだ。……だからね、自分で死んじゃった」

 風がぴたりと止み、世界が耳鳴りがするほど静かになる。
 その言葉だけが、冬の冷気の中でやけに重く、鈍い音を立てて響いた。
 凌はゆっくりと視線を落とす。墓石の前に供えられたばかりの、鮮やかな白い花と淡い青の花。
 命を削って空を描き続けた人。
 その手を奪われ、描けなくなってしまった人。
 そして――今まさに、その先輩と全く同じ絶望の坂道を一歩ずつ歩んでいる目の前の碧南。

「……そうか」

 凌の口から出たのは、それだけの短い言葉だった。
 今の自分に、何を言えば正解なのかが分からない。安っぽい励ましも、形の良い慰めも、今の二人の間には致命的に違っている気がした。
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