せっかく凡庸な彼女が自ら身を引いてくれたのに、天才魔術士はそれを許すつもりがないようです
初等部の校舎に足を踏み入れるのは、入学式の日以来だった。
しかもあの日は、正面玄関でジェシカを待ち構えていただけだ。
しかし、赴任初日に校内図を見て、1年A組の教室の位置は把握している。
迷うことなく廊下を歩き進む。
と、そのとき、進行方向の先からロペス先生の声が聞こえてきた。
彼女は、1年A組の担任教諭だ。
「セシルさん、これはどうしたのですか?」
ハンスは歩を速めた。
「黙っていては分かりませんよ? 何でもいいから話してみなさい」
(何か叱られてる最中なのか⁇)
内容から判断するに、そう考えるのが順当であろう。
だが、その声色に怒りは含まれておらず、むしろ優しく訊ねている。
判断しかねた。
「……気づいたらそうなってました」
これまでセシルからは聞いたことのないほどの、か細い声が聞こえた。
廊下から教室を覗く。
セシルが座る席の前で、ロペス先生が何かを胸の高さまで掲げていた。
どうも教科書のようだ。
目を凝らす。
ロペス先生が開いているページは、半分くらいがインクで汚れていた。
セシルの後方に座る男児たちが、目配せしながら、ニヤニヤしている。
(ああ、嫌な光景だ)
ロペス先生にも見えているはずだ。
しかし、『あなたたちがやったのでしょう?』と訊くわけにもいかない。
セシルの口から、彼らを問い質せるだけの証言がほしいのだろう。
それなのに、セシルは俯き、口を引き結んでしまった。
本当にセシルの知らないところでやられてしまって、犯人の検討がつかないのか。
それとも、正直に答えて、仕返しにもっと酷いことをされるのを恐れているのか。