クールで無口な先輩、実は天然で優しすぎる。――新人の私がその距離をゼロにするまでの600日
夜風に当たりながら十分ほど歩くうちに、さっきまで少し強張っていた先輩の表情もほんの少しだけ和らいでいた。

とはいえ、先輩はまだ完全に「上司」の顔を崩してはいない。
「寒くないか」とか、「足元、大丈夫か」とか。
途切れ途切れに交わされる言葉も、どこか慎重で一定の距離を守ろうとしているのが分かる。

(……このまま駅に着いたら、終わっちゃう……)

焦りが、じわじわと胸を締めつける。
せっかくここまで、先輩の「上司」の壁の向こう側に触れられたのに。
まだ、今日を終わりにしたくなかった。

ちょうどその時、通り沿いの細い路地の奥に落ち着いた雰囲気のバーが見えた。

(……よし)

私は小さく決意するみたいに息を呑んで、先輩に声をかけた。

「……先輩。ちょっとだけ…寄り道してもいいですか?」
「……寄り道? どこにだ」
「そこ! ほら、あそこの路地裏にある、雰囲気の良さそうなバー」

柔らかな灯りが漏れる小さな店を、私はそっと指差した。

「一軒目、お喋りしすぎて喉乾いちゃいました! ……最後の一杯だけ、付き合ってくれませんか? ……あ、今度は私の奢りです。……いいですよね?」

首を少し傾けて、満面の笑みで「ね?」と畳み掛けた。

……もしここで「帰るぞ」と背を向けられたら、私の手中(しゅちゅう)の鳥は今度こそゼロになる。
笑顔の裏側で、心臓が激しく鼓動していた。

先輩はしばらく無言で考えていたが、「……りんりん、お前なぁ……」と天を仰ぎながら、その足は私の指し示す方向へとゆっくりと向いていた。
< 102 / 210 >

この作品をシェア

pagetop