【凛視点】クールで無口な先輩、実は天然で優しすぎる。――新人の私がその距離をゼロにするまでの600日
(……え、今、……なんて?)

「えっ、先輩の分の傘ないですよね!? 一緒に、相合傘で——」
「いい。俺は走って帰るから、じゃ」

引き止める間もなく、彼は傘を私の手に押し付けると雨の中を走り出していった。
みるみるうちに、その背中が雨の向こうへと遠ざかっていく。

私は、開いたばかりの傘を握りしめ、雨の中に滲んでいく彼の背中を呆然と見送った。

(……走って、帰るって。あんなに、びしょ濡れになってまで)

自分を犠牲にして、当たり前のように私を優先してくれた。
それだけでも十分すぎるほど、胸がいっぱいだった。

けれど。
今、彼は確かに呼んだのだ。
同僚たちが親しげに呼ぶ名前。けれど彼の口からは一度も聞いたことがなかった、あの愛称で。

(……りんりん、って。……言ったよね)

「苗字」でも、「君」でもなく。
ずっと、密かに憧れていたその響きが、彼のあの低い声であまりにも自然に放たれた。

私はゆっくりと傘の内側を見上げた。
雨粒が布を叩く音が、やけに大きく耳元で響いている。
…けれど、それ以上に自分の鼓動がうるさくて、耳の奥まで熱くなっていくのがわかった。
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