【凛視点】クールで無口な先輩、実は天然で優しすぎる。――新人の私がその距離をゼロにするまでの600日
翌日。

朝一番で「昨日は本当にありがとうございました。風邪、引いてませんか?」と声をかけたものの、先輩は「ああ、大丈夫だ。それより昨日の修正データの件だが…」と、あっという間に私を仕事の波に飲み込んでしまった。

「例の資料、今日の午後イチの会議で使うことになった。午前中に最終チェックを終わらせたい」
「あ、はい。……あの、先輩、昨日の傘なんですけど」
「悪い、その話は後だ。クライアントからのメールも来てるから先に確認して修正にかかってくれ」
「っ、はい!」

ピシャリとシャッターを下ろすような、隙のない声。
私は反射的に背筋を伸ばし、完全に「部下」の顔に戻って頷くしかなかった。

自分のデスクに戻り、そっとその横顔を見る。

パソコンの画面を睨むその表情は、感情の読めない「いつもの上司」そのものだ。昨日のことなんて、もう完全に忘れてしまったみたいな顔をしている。

(……「りんりん」って、もう一度だけ、呼んでくれないかな)

そんな淡い期待は、一旦胸の奥に閉じ込めて。

私はメール確認と急ぎの修正作業に集中するために、キーボードに指を置いた。
どんなに今は冷たくあしらわれても、雨の中で呼んでくれたあの声が、今の私を支える秘密になっている。
「仕事」という建前の裏側で、自分だけが知っている彼の優しさを噛み締めて、私は誰にも見えないように小さく微笑んだ。
< 36 / 53 >

この作品をシェア

pagetop