蝶よ花よ
第一章、繭に守られて

かいこ

「ねぇ、泰仁(やすひと)さん、これはどういう意味?」
ごろりと畳にうつ伏せに寝転び、これでもかというほど流行りの書物を床いっぱいに広げる。
新しい紙の匂いと、少し古びた(すみ)の香りが混ざり合って、鼻の奥をくすぐった。
ぱたぱたと足を揺らしながら、私は顔だけを上げて彼を見た。
「これは(まゆ)。お(かいこ)さんが吐く糸で、着物や帯になるんだよ」
「すごいねぇ、お蚕さん。じゃあ、こっちは?」
指で示した先を、泰仁さんは一瞬だけ目で追う。
「これは和歌。昔の人が詠んだ(うた)だよ。祭りは見たことある?」
「ううん。ない!だからねぇ、いつか行ってみたいんだ」
「……そうだね」
ほんのわずかに、彼の声が柔らいだ気がした。
けれどその目は、どこか遠くを見ているようで――。
少し前に出会ったばかりなのに、もうずっと前から知っているような、不思議な距離感の人だ。
外のことも、難しい話も、何でも知っている。
私の知らないことを、当たり前みたいに知っている。
今はここから出られないって言ってたけど、いつか泰仁さんと外を歩いてみたいな。
流行りの書物を読んでいることも、こんなことを考えていることも、みんなには内緒だけど。
未来を担う陰陽師として家に閉じ込められて日々特訓に励んでいるが、やっぱり外で他の子達と遊びたい。
「祭りは、賑やかだよ」
「えっ、泰仁さん行ったことあるの!?」
ぱっと身を起こすと、書物がばさばさと音を立てて崩れた。 けれどそんなことは気にせず、ぐっと身を乗り出す。
泰仁さんはその様子をちらりと見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……昔に、少しだけね」
泰仁さんはそう言って、崩れた書物の一冊を拾い上げる。
「灯りがたくさん並んでね。赤や(だいだい)提灯(ちょうちん)が揺れて……夜なのに、まるで昼みたいに明るいんだ」
「へぇ……!」
思わず息を呑む。
見たこともない景色が、言葉だけで目の前に広がっていくみたいだった。
暗いはずの夜が、光で満たされているなんて、想像するだけで胸が高鳴った。
「太鼓の音が響いて、人が笑って、食べ物の匂いがして……少し、うるさいくらいだよ」
「うるさいの、やだ?」
そう尋ねると、泰仁さんはほんの少しだけ目を細めた。
「……いや。嫌いじゃないよ」
その言い方が、なんだか少し寂しそうで。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「じゃあさ!」
勢いよく身を乗り出す。
「いつか一緒に行こうよ!私、泰仁さんと見てみたい!」
言った瞬間、しまった、と思った。
ここから出られないって、さっき聞いたばかりなのに。
でも泰仁さんは、怒らなかった。
「……楽しみにしているよ」
そう言って、私の頭をそっと撫でる。
撫でる手は思っていたよりずっと優しくて、 ほんの一瞬だけ、全部の現実が遠くなった気がした。
「あ、その前に家から出なきゃダメなのか……」
ぽつりと呟くと、さっきまで浮かんでいた景色が、すっと遠ざかっていく。
提灯の灯りも、太鼓の音も、全部――手の届かないところにあるみたいで。
「……厳しいの?」
泰仁さんの声は、いつも通り穏やかだった。
「うん。外に出るの、あんまり許されてなくて」
指先で畳をなぞりながら、小さく笑う。
「未来の陰陽師だから、ちゃんと修行しなさいって」
言い慣れているはずの言葉なのに、口にすると少しだけ苦かった。
「でもね!」
顔を上げて、無理やり明るく笑う。
「ずっとじゃないもん。きっとそのうち外に出られるし――」
言いかけて、ふと止まる。
“いつか”って、いつなんだろう。
「俺としてはここで君と話すのも、二人だけの秘密みたいで楽しいのに」
「えー……でも外に出たいよ」
少しだけ頬を膨らませて言うと、泰仁さんはふっと小さく笑った。
「そうだね。その時は一緒に出ようか」
「良いの?」
思わず身を乗り出す。
泰仁さんは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「この世には美しい景色や感情が溢れている。俺は(つむぎ)にも知ってほしいんだ」
その言葉に、少しだけ心が軽くなる。
けれど私は、ぽつりと言ってしまった。
「でも、私の元に来る大人達はみんな誰かを恨んでいるよ?」
そう言うと、泰仁さんの微笑みが、ほんのわずかに揺れた。
「……そうだね」

それから月日が流れ、私は十二になった。
庭の木々は何度も色を変えて、知らないうちに背丈も少しだけ伸びていた。
そんなある日、父が倒れた。
重い病のようで、医師を呼んで診てもらったが、原因は分からないらしい。
高熱にうなされながら、何度も、何かを拒むように首を振りながら。
そして――ある朝。
静かに、息を引き取った。
それからは本当に慌ただしかった。
葬式、手続き、知らない大人達の出入り。 泣いた気はするけど、いつ泣いたのか思い出せない。
気づけば、全部終わっていた。
線香の匂いだけが、やけに長く残っていて。
それが消えた頃には――父がいないことだけが、はっきりと現実になった。
父が亡くなってから、人の出入りはぱったりと止まった。手続きの時に来ていた大人達も、必要なことだけ終えると、まるで潮が引くみたいに消えていった。
広い屋敷は、静かすぎるくらいだった。
——だから余計に、自分の足音がよく響く。
ため息をつきながら縁側に座っていると、庭の奥に泰仁さんの姿を見つけた。何をしているのか気になって音を立てずに駆け寄った。
「紬かな?」
前を向いたままこちらを振り向くことなく私だと言い当てた泰仁さんは答え合わせをするように私を見た。
「当たり」
微笑んでいるのに、その瞳はいつものように憂いを帯びていた。
私が当主になってから、自由に外に出られるようになったらしい。
彼が外に出るようになってから気づいたことがある。
美しいものには心を砕くけど、醜いものや嫌いなものには心底冷たい。
庭の草木や小鳥を愛でる姿は時折笑みを浮かべる。逆に噂好きな女中さんや裏で嫌味を言っている人に対しての視線は凍えるほどに鋭くて、いつもの優しい泰仁さんじゃないみたいだった。
母や女中さんはそんな泰仁さんに怯えきって、すっかり弱ってしまっている。
「泰仁さん、来月から中学校に通うことになったんだよ!」
「へぇ、それは楽しそうだね。俺もついて行って良いかな?」
「ダメ」
「そっかぁ……」
その一言だけが、妙に庭の空気に沈んだ。
「紬も成長したね。(かわや)に行けなかくて、ついてきてって泣いてた子がもう中学生か」
懐かしむように私を見る。
「いつの話してるの!?」
泰仁さんは、少しだけ肩を揺らして笑った。
「そんな昔じゃないよ」
「昔だよ!」
即座に返すと、泰仁さんは目を細めて、まるでその反応ごと楽しむみたいに笑った。
その笑い方はやっぱり優しくて、でもどこか人間離れしている。
「紬は、すぐ大きくなるね」
「そうかな?」
そう言いながら、自分の手のひらをじっと見る。
昔より少しだけ大きくなった指先は、けれどまだ子どもの輪郭を残していて――どっちつかずのまま止まっているみたいだった。
ちょっと自分では分からないかもしれない。
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