僕の秘密と、彼女の嘘

守りたい音

「奏はダメね。まるで才能がない」

夜の防音室。

グランドピアノの黒い艶に、母の言葉が冷たく跳ね返る。

その瞬間――
初めて、本気で母に殴りかかりたいと思った。

「……僕だって、似たようなものでしょう」

怒りで震える手を、必死に抑えながら母を睨みつける。

「全日本に進むのがやっと。上位には、なかなか入れない」

「でもね、奏は――そこにすら行けないのよ」

「奏は、まだ小学生だよ……!」

「あの年齢で伸びないから言ってるの」

……たしかに、奏は伸び悩んでいる。

でも。
それは本当に、"才能"の問題なのか?

ピアノの前で笑わなくなった奏の顔が浮かぶ。

ピアノを教えているのは、母だ。
そして今の奏は――ピアノを弾くことを、楽しめていない。

鍵盤の前で、あんなに笑っていた奏は、もういない。
音楽の楽しさを教えてあげればいいのに。
そう思っても、その願いは届かない。

「せっかく“奏でる”なんて名前をつけたのに」

母は吐き捨てるように言った。
その一言が、胸の奥を深く抉った。

*

その夜。
僕は防音室に、もう一度座っていた。

ピアノの練習をしていると、重いドアが静かに開いた。

パジャマ姿の奏。

「どうしたの? 弾く?」

「ううん、今は弾きたくない」

そう言いながらも、ピアノを見つめている。

「ねえ、お兄ちゃん」

奏は小さく一歩、近づいてくる。

「またあの曲弾いて」

あの曲。

前に伴奏したボカロ曲。

「歌いたいの」

その一言で、胸の奥が熱くなった。

母のためでも、
コンクールのためでもない。

今は、奏が笑うために、弾こう。
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