手相占い師の指先に、恋心までなぞられました
イベントが終わったあとの控室は、少しだけ現実味がなかった。
机の上には、読者から渡された花束と、サインを書き終えたペン。
隅には畳まれたポスターと、書店に戻すための段ボール。
さっきまであれほど人の声で満ちていたのに、今は空調の音だけが静かに響いている。

「本日はお疲れ様でした」

私は資料をまとめながら、いつもの調子を意識して言った。

「このあとの細かい確認は、編集部で対応します。先生はお帰りいただいて大丈夫です」
「白石さん」

低い声に呼ばれて、手が止まる。
水無瀬先生は、椅子に座ったまま私を見ていた。
イベント中と同じ穏やかな顔なのに、その目だけが少し違う。

「今日で、大きな仕事は一区切りですね」
「……はい。発売後の販促は続きますが、イベントとしては無事に終わりました」
「では、ここからは仕事ではない話をしても?」

心臓が、嫌なほど大きく鳴った。

「仕事ではない、話……ですか」
「はい」

逃げた方がいい。
そう思った。
先生は担当作家で、私は編集者だ。
低い声が好きだとか、綺麗な手が気になるとか、そんな個人的な感情を持ち込んでいい相手ではない。

「私は、先生の担当です」
「知っています」
「でしたら」
「だから、今日まで待ちました」

まっすぐな声。
ずっとからかわれていると思っていたのに、その一言だけで、彼が線を越えずにいてくれたことまで伝わってしまう。

言葉を失った。
先生はゆっくり立ち上がる。
一歩近づくだけで、さっきまで聞いていた声が、急に体温を持つ。

「僕が人の手を見るのは仕事です」
「……はい」
「声を使って伝えるのも、仕事です」

その通りだ。
わかっている。
わかっているから、ずっと自分に言い聞かせてきた。

「でも」

先生の視線が、私の手元に落ちる。

「手を繋ぎたいと思ったのは、あなたが初めてです」

何度も人の手を取ってきた人が、そんなことを言う。
それだけで、胸の奥の防波堤が音もなく崩れていく。

「……それも、手相に出るんですか」

どうにか茶化すように言うと、先生は少しだけ笑った。

「見てみましょうか」
「え?」
「手相、見たげよか。ぱーしてみ?」

あまりにも自然に言われて、私は反射的に左手を出してしまった。

「……こうですか?」

開いた掌を見せる。
いつものように、生命線をなぞられるのだと思った。

けれど、先生の指先は線を追わなかった。

私の掌に、自分の手をそっと重ねる。
そのまま、指と指の間へ滑り込ませる。

「あ……」

恋人みたいに、指が絡まる。

「ほんま、素直でかわええな。もう離さへんよ」

標準語ではない声が、低く落ちる。

引かれた手に逆らえない。
一歩分の距離が消えて、彼の手が私の腰に回る。

「あの、先生……今の、方言ですか……?」
「ああ……そやね。こういう時は、素が出てまうみたいです」

耳元に、甘く崩れた声が触れる。

「え……あ、あの……へっ?」

先生のきれいな手も、指先も、今は私の手をしっかり捕まえている。
腰に回された手は意外と力強い。
けれど、怖くはなかった。

ただ、顔が近い。
近すぎる。

さっきまで控室にあったはずの空気が、急に薄くなったみたいだった。

「ちょっと……理解が追いつかなくて」
「ん〜?ちゃんと言葉にせんとあきませんか。それとも、実行された方がええ?」
「実行!?何を!?」
「……何を想像したん?」

何をって。
そんなの。

「ほな、ちゃんと言葉にしましょうか」
「言葉……?」

彼の指が、絡めたままの私の手をきゅっと握る。

「白石さんのこと、好きなんです」

息が止まった。

いつもの穏やかな仕事用の声ではない。
標準語を保とうとしているのに、声の端だけがやわらかく崩れていて。
そのせいで、まっすぐな告白が余計に色っぽく聞こえてしまう。

「手相を見たいんやなくて、手を繋ぎたいと思いました」
「……っ」
「占い師としてやなく、男として」

そんなふうに言われたら、もう逃げ道なんてどこにもない。
手相だけで済むはずがない。
この人はきっと、生命線も、感情線も、私が隠していた気持ちまで、全部見抜いてしまう。

それなのに。
怖いより先に、嬉しいと思ってしまった。
見透かされるのが嫌なら、とっくに手を離している。
けれど私は、絡められた指をほどこうとしなかった。

「白石さんは?」

先生の声が、少し低くなる。

「俺のこと、好きやろ?」
「へっ……?」
「手も」
「っ!」

絡めた指先が、私の手の甲をそっとなぞる。

「声も」
「な、なんでバレて……」
「だって、俺も白石さんの手も声も好きやから」

不意打ちみたいに返されて、息の仕方がわからなくなる。

好きと言われたのは、私の方なのに。
なぜか、私まで彼の秘密を預けられたみたいだった。

もう一度、ぐっと手を引かれ、顔が近づく。

「で、白石さんは?」

声が震えそうになる。

『そうやって、心が動いたことを別の言葉で片づけようとする』

初めて占ってもらった時、恋愛で言われたこと。
本当に当たっている。

今だって必死で、言葉や理由を探している。
仕事だから。
相手は先生だから。
担当だから。

そうやって、逃げられる場所を探しているのに。
耳元で囁かれて、絡めた手を握られて。
嘘をつくことも、抗うこともできなくなる。

「……私も」

先生の指が、私の指を少しだけ強く絡める。

「私も、先生のことが好きです」

言い終えた途端、彼の瞳がやわらかくほどけた。

「先生やなくて。律、って呼んで。舞さん」

耳元に、甘く低い声が落ちる。
下の名前で呼ぶなんて、それはずるい。
そんな声で、そんな名前を渡されたら、逆らえるわけがない。

「……り、律さん」

呼んだ途端、抱きしめる腕に少しだけ力がこもった。

「はい」

その返事があまりに嬉しそうで、胸の奥が熱くなる。

離れようとしたわけではない。
けれど、絡められた手を少し動かした瞬間、律さんがその手を逃がさないように持ち上げた。

「……あの?」
「まだ、見てへん線があります」
「え?」

手相を見るみたいに、律さんの親指が私の手の甲をそっと撫でる。
もう何も出ていないはずなのに。
それでも、彼の指先が触れるだけで、隠していた気持ちまでまた見つけられてしまいそうだった。

「ここ」

低い声が落ちる。

「俺が、いちばん好きなところ」

そんな線、手相にはない。
そう言おうとしたのに、声にならなかった。

律さんが、私の手を少しだけ引き寄せる。
そして、絡めた指をほどかないまま、手の甲に唇を落とした。

「……っ」

キス、と呼ぶにはあまりにも静かで。
でも、触れた場所だけが、どうしようもなく熱い。

「手ぇ、震えてる」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「俺のせいやったら、嬉しいんやけど」

ずるい。
声も、手も、言葉も。
全部ずるい。

手相を見られたはずなのに、気づけば私の未来の方が、彼の手に掴まれている。

占われたからではない。
見抜かれたからでもない。
私が、この手を選んでしまったのだ。
もう二度と、この手を離したくないと思った。
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