孤高の心臓外科医は、憎しみの元恋人を熱情で囲い込む
第一章:別れ
都内の国立大学、東敬一芸(とうけいいちげい)大学に通う二年生、篠宮一葉(しのみや・かずは)は手からこぼれ落ちそうになった文庫本を、落ちる寸前で掴んだ。
眠気眼を擦り顔を上げると、バスの窓から見知った景色が流れていた。
(外、暑そうだなぁ……風、少しはあるといいんだけど)
小さく息をつき、再び手元の英語で記された文庫本へと視線を落とす。
一年前はほとんど読めなかった。けれど文学部で膨大なレポートに追われるうちに、時折辞書を引きながらではあるが、原文を追える程度にはなっていた。
今、一葉が夢中になっているのは、英文学の中でも、とりわけ内面の葛藤や矛盾を執拗に掘り下げる作風で知られる、フョードル・ドストエフスキー。
決して万人に受け入れられるような読みやすい作家ではない。
むしろ、読み進めるほどに胸の奥を抉られるし、不快さすら伴うときもある。
それなのに不思議と、ページを閉じることができない魅力がある。
どうしてだろう、と考えたときふと気づいた。
自分の中にある漠然とした孤独感と、彼の描く、救えないような歪んだ人間の姿とが、どこかで重なっているのだと。
彼の世界にどっぷり漬かっていたが、突然、バタンッという鈍い音に引き戻された。
「っ、痛いねぇ……」
視線を上げると、八十は過ぎているであろう老婆が、ステップの手前で膝をついているのが見えた。
どうやら、目的のバス停で降りようとしたところ、足を取られて転んでしまったらしい。
「おばあちゃん、大丈夫ですか!」
近くに座っていた一葉は、慌てて立ち上がり、倒れている老婆の腕を支えるように掴んで覗き込む。
一葉以外にも乗客は何人かいたが、誰も立ち上がる様子はなく、ただ驚いたようにこちらを見ているだけだった。
『では発車しまーす』
車内アナウンスが流れる。運転手は気づいているのか、いないのか。後方ドアが閉まり、エンジンが唸りを上げた。
(えっ、そんな……!)
あまりにも冷淡な流れに、思わず息を呑む。声を上げようとした、その瞬間。
すっと、ひとつの影がこちらに差し込んだ。
「待ってください。おばあさんが、まだ降りられていません」
耳に届いたのは、はっきりと通る、男性の低い声。
顔を上げると、すらりと背の高い短髪の男性がすぐそばに立ち、運転手へ向かって声をかけているところだった。
「急発進は危ないですよ。後方、ちゃんと確認してください」