『お姉ちゃんだから』と我慢し続けてきた令嬢、ついにブチ切れる【完結まで毎日更新!】



 伯爵家長女、ソフィー・ウォルジーの朝は早い。
 日が昇る前、まだ薄暗い部屋で起床し、貴族令嬢のそれとは程遠い質素な身支度をたった一人で済ませる。

 鏡を覗き込む余裕も、自分の惨めな姿を確認する気力もない。ぱさぱさに傷んだ髪を一つに括り、幾度もの洗濯で生地がごわついたワンピースを頭から被る。ただ、それだけだ。

 井戸から汲み上げた冷水で顔を洗えば、準備は終わる。家族が起き出し、「お姉ちゃん」への身勝手な要求が降り注ぐ前に、屋敷の掃除を済ませておかなければならない。


 ウォルジー家の家計は火の車、毎月が綱渡りの状態だ。
 祖母の代から仕える老執事夫妻と、継母たちのための数人の侍女を維持するのが精一杯で、下働きの使用人など雇う余裕はどこにもない。

「お嬢様はあんなにボロボロになりながら……ああ、可哀想に」

 寮から出てきた侍女たちの、薄ら笑いを孕んだ囁きが聞こえる。

 彼女たちは憐れみの視線を向けてはくれるが、決して手を貸そうとはしない。余計な仕事を抱え込みたくないのだ。

 私が帳簿の上で数字と格闘し、血を吐く思いで捻出した賃金。それを当然の権利のように受け取りながら、彼女たちは最低限の仕事以外には見て見ぬふりを貫く。

 そうして安全な特等席から、この歪んだ家族の行く末をまるで娯楽のように眺めているのだ。



「……まずは掃除ね」
 私はあかぎれで荒れた手のひらを、天井へと掲げる。

「風魔法――家具を浮遊。気流操作、埃を一斉排除」

 指の動きに合わせ、幾つもの小さな竜巻が発生した。重厚なソファやテーブルがふわりと重力を失い、その隙間を鋭い風の渦が潜り抜け、埃を吸い取っていく。

「……ふふ、まるでオーケストラの指揮者になった気分ね」

 今度は翼を広げるように腕を横に伸ばす。見えない掌で雑巾に風圧を叩きつけ、一気に滑らせれば、重労働な水拭きも一瞬で終わる。
 出力が強すぎれば床板を剥ぎ、弱すぎれば汚れは落ちない。初めは失敗してばかりだったが、今や雑巾は意図した通りの軌道を描き、床の上を鮮やかに踊る。


 重いバケツを運ぶ労力も、膝をついて床を磨く時間も、今の私には惜しい。

 だから、魔法を使う。

 かつての戦乱期、魔法は戦場を支配する強大な武力だった。けれど平和な現代において、それは貴族の権威を示すだけの、美しくも無益な「装飾品」に成り下がっている。
 故に、生活のために魔法を酷使することは、貴族社会における最大の恥辱(はじ)


 けれど、追い詰められた私にはこの道しか残されていなかった。

 緻密に術式を編み上げ、巨大な家具を操り、一気に汚れを排除する。この狂気的なまでの魔力コントロールこそが、私の真骨頂。

 魔力操作に没頭している間だけは、自分が家族のための「便利な道具(お姉ちゃん)」であることを忘れ、ただ一人の「人間」に戻れる気がした。




 次は朝食作り。

「風の(やいば)による、超高速薄切り(スライス)。……うん、今日も均一ね」

 洗い物を増やしたくないので、包丁は使わない。宙に浮かせた野菜を、目に見えぬ風の刃で精密に切り刻んでいく。
 細胞を壊さないように、風の刃の厚みを零点一ミリ以下に固定。こうすることで安物の不揃いな野菜も、王宮の料理人が作るかのように口当たりが劇的に向上する。

 父は食事にだけはこだわり、「繊維を損なわない切り方こそが一流の証だ」などと贅沢を抜かすが、それを実現しているのが、本来は戦場を切り裂くべき攻撃魔法の転用だとは夢にも思うまい。


 髪を振り乱し、感情を置き忘れたような顔の女が、空中でスパッスパッと刻まれていく野菜を凝視している。
 その異様な光景を他人が見れば、悲鳴を上げて逃げだしてしまうかもしれない。

 一般市民にとって、魔法とは祭典で仰ぎ見る華やかな芸術だ。掃除や炊事に酷使する私の姿は、彼らにとって不気味を通り越して軽蔑の対象になり得る。

 だから魔法は、必ず一人のときにしか使わない。私がどうやってこの広い屋敷を、たった独りで維持しているのかを知る人は誰もいない。


 鍋の中で踊る具材と、立ち上がる湯気をぼんやりと眺める。
 あの約束を思い出してしまうから、「待つ」時間だけは少し苦手。

 時間のかかる煮込み料理は嫌いだけど、素材を分解し再構築するプロセスは実験そのもので、私のささやかな愉しみでもあった。


「……今日は風魔法で酸素を送りこんで、燃焼効率を上げてみようかしら」

 薪の節約にもなるし、何より――魔力の計算だけに没頭している間は、余計な雑音を忘れられるのが心地よかった。




< 2 / 36 >

この作品をシェア

pagetop