ほたる先生は振り向かない
古典の講習がある日は、気持ちが満たされる。

バッグにつけた青い犬をなんとなく指で触りながら、スキップ気味に階段を降りていく。

西日が差し込む廊下を小走りで歩いて、職員室を目指していた。


今日は金曜日だし。
土日は学校が開いてないから会えないし。
そうなると月曜日まで耐えられないし。

最後にほたる先生に挨拶でもしてから帰ろう、と気軽な気持ちで職員室の窓を覗き込む。


いつもほたる先生がいる机に、知らない女子生徒。
もたれかかるようにしてなにか話し込んでいた。


夏服のリボンの色が違う。
……一個下か。

────夏休みなのに、二年生も来てるんだ。
いや、当たり前か。
勉強熱心な子は、学校が開放されていれば来る子は来る。


机の上には模試の結果らしい紙が何枚も広がっている。
ほたる先生は、私と話す時と同じ顔をしていた。

たぶん、落ち着いた声で話をしている。
少しだけ身体を傾けて、ちゃんと相手の話を聞いている顔。

窓越しだから声は聞こえない。


でも、聞こえなくても、分かってしまった。
進路相談だ。


その場に立ち尽くして、無意識に両手でバッグの青い犬を握る。


ほたる先生は、別に私にだけ特別なわけじゃない。
みんなに対して、同じように、平等に接しているわけで。

いつの間にか自分だけが、先生のいいところを知っているような気になっていただけなのかもしれない。


呆れたような顔も。
面倒そうな声も。
きっと、私だけじゃない。

勉強について聞きに来る生徒には、男女関係なく教えてあげるはずだ。


私が見つけたと思っていた、あの少しだけ緩む瞬間も。
たぶん、私だけのものじゃない。


……私にだけ見せてほしい顔を、他の誰かにもするのは嫌だし。
かと言って、そんなプライベートな先生を私にだけ見せるのも、なんか違う。


言い表しがたいなんとも言えない感情が、ぐわっと身体中を駆け巡っていく。

そっと後ずさりして、来た道を引き返す。


そのまま階段をまた降りて、一階へたどり着いたところでふと立ち止まった。

こんなところで、止まっているわけにはいかない。


冷房の効いた校舎を出ると、むわっと熱気がまとわりつく。

バッグについた青い犬が、歩くたびに揺れた。
私はそれを指でつまむ。


「……めんどくさ」

小さくつぶやく。


特別だったら嬉しい。
でも、誰かだけ特別だったら嫌だ。

そんなの、どう考えても矛盾してる。


しばらく犬の死んだ目を見つめてから、私は小さく息を吐いた。

「……まあ、そういう人だから好きなんだけど」


犬の頭を軽くつつく。
当然、返事はない。


代わりに夕方の熱い風だけが吹いた。


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